同朋の朋という字は、もともと二個一組の貝を意味する文字で、貝を糸で貫いて二列に並べた形からできています。同じ大きさで並び、同じ高さで出会う仲間を意味します。誰かだけが特別大きく幅を利かせ、誰かだけが小さくなって片隅でがまんするということではなく、水平に出会う関係です。

 阿弥陀仏の本願において、自身の事実に出会い、人間の迷いの姿に共に目覚め、迷いの歴史を共に課題として見出す世界が開くのです。そうした出会いの世界を親鸞聖人は「われら」とも表現されました。

 しかし、私たちは直ちに誰とでも同朋として出会うことができるでしょうか。それは、簡単なことではないでしよう。他人はどうあれ、まず私が楽になりたいという思いに覆われているのも、私たちの事実です。そういう私たちに「同朋」という本願によって開く出会いを示す言葉は、むしろ私たちのつくる関係や出会いを間い直すものとなるのではないでしようか?

 私たちの出会いは同朋という出会いになっているだろうか。私たちの集まりは同朋という名にふさわしいものになっているだろうか。同朋という出会いを失って私たちの社会はどういう間題を抱えているのか、と。

 その意味で、真宗大谷派が社会に発信している「同朋会運動」とは、私たちの出会いや集まり、社会が同朋として出会うものになっているのか。どうなっているのか、私たちの日ごろの在り方によって、それが阻害されているのか、同朋という名のりから間われ続ける運動なのです。

 

ワンコインブツク『同朋』(東本願寺出版)より