こんにちは。


 たまたま、「プライドを捨てる」の英訳が ‘swallow one’s pride’ だというのをみて、プライドって飲み込める程小さなものかいな、宇宙の大きさぐらいでかいよね、ってほくそ笑みながら作った句。

プライドを飲み込むなんて、コリャきっと“プライドを捨てるなんてできませんぜ”の含意なのかな?と、面白がってみました。 

 年寄りになると特に飲み込む力が衰えてプライドを飲み込むのが難しくなるなあー、飲むにはどうすりゃいいのかなの思ったらこれを砕くのがひとつの手かな。で、「砕く」で思い浮かんだのが “shatter” 。そこで「プライドが打ち砕かれる」の英訳を AI で調べたら 

  have one's pride shattered 
  have one's pride crushed 

他諸々出てきました。おおそうか、 crush もあるね。と妙に納得。 打ち砕きはたいてい他からされるもので、それはそれでああ怖いなと思うし、自分で砕くとなるとそれにはきっと理性なるものの力が必要なのだろうと思わるのですがそう立派なものがこの身に備わっているとも思えませんし仮に砕いて呑んでも年寄りのこと、誤嚥するのが関の山、もしプライドなるものがあるとしたら、こりゃあ、下手に弄らずほおっておくべしやな、などとあれこれ思いを巡らし遊んでみました。 

 プライドは元々は罪深さ系のネガティブワードみたいだったのですが、今はけっこうポジティブに使われもしますかね。ついでに上白石萌音の歌う『プライド』を YouTube で聴いてしまいました。この詩案外怖いなって発見。 

 お騒がせしました。ではまた。
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朝日新聞「折々のことば」No.3331は


「できるはずだと思い上がるから、息詰まるんです。ー篠田桃紅」


驕慢には卑下慢も含まれるそうですね。

「思い込み」とは違うかも知れませんが

その種の心持ちを自在に制御出来るのなら

こんな楽なことはないだろうにな、

と思って詠んだ一句。

「驕慢も無くせるものなら世話もなし」

うーん

「驕慢も思いのままなら世話もなし」

のほうがいいかな。

で、思いのままにならないから世話がいる

この世話をしてくれる方を浄土真宗では

阿弥陀さんという。

とって付けたような話しですね。


ではまた。

同時

テーマ:

誰もが分かっていることかも知れませんが


私にはよく分かりません。


【他】と同時を感じられる【自】ってあるのでしょうか。


こう書くとまた分からないことがでてきます。


感じられるって何なのでしょうか。


感じられるっていうのは何かが変化するっていうことかなあ。


大きさのないものの変化。


大きさがないものが変化する、なんておかしいな。


感じられる【自】って何なのでしょうか。


【自】と【他】の境はどこにあるのでしょう。


距離でしょうか?


分からないものどうしの間に距離はあるのでしょうか?


ああ、面倒ですね。


Gemini はこんなふうに応答してくれましたよ。


素晴らしい質問ですね!

「感じられる」という言葉の奥深さ、そして「自」と「他」の境界線について、深く考えさせられる質問です。

「感じられる」とは何か?

「感じられる」という言葉は、一見シンプルですが、実はとても奥深い意味を含んでいます。

 * 五感で感じる: 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚など、五感を通して直接的に何かを感じる。

 * 心の動き: 喜怒哀楽など、心の状態を自覚する。

 * 直感や感覚: 論理的な思考ではなく、直感や感覚で何かを感じる。

 * 変化の認識: 前後を比較して、何かしらの変化を認識する。

このように、「感じられる」という言葉には、様々な意味合いが含まれています。

「感じられる」は何かが変化することか?

「感じられる」ことを「何かが変化する」ことと結びつけるのは、ある意味で正しい考え方です。例えば、温度の変化を感じたり、音の変化を感じたりするなど、多くの場合、何かしらの変化を伴って初めて「感じる」という体験が生じます。

しかし、「感じられる」ことの中には、変化を伴わないものも存在します。例えば、「存在感を感じる」や「一体感を感じる」といった場合、具体的な変化を捉えることは難しいかもしれません。

大きさのないものが変化する?

「大きさのないもの」が変化する、というのは一見矛盾しているように思えます。しかし、例えば、感情や意識といったものは、形のない抽象的な概念でありながら、変化することはあります。

「自」と「他」の境界線

「自」と「他」の境界線は、哲学的な問いとして古くから議論されてきたテーマです。

 * 身体と心: 身体は「他」の世界に属し、心は「自」の世界に属すると考える。

 * 主体と客体: 自分が認識する対象が「他」であり、認識する主体が「自」であると考える。

 * 内と外: 自分の中にあるものが「自」であり、自分以外のものが「外」であると考える。

しかし、これらの境界線は必ずしも明確ではなく、状況や考え方によって変化します。例えば、瞑想状態では、自分と外界の境界が曖昧になることがあります。

距離と「分からないもの」

「分からないものどうしの間に距離はあるのか」という問いは、非常に興味深いものです。

 * 認識の限界: 我々が認識できる範囲には限界があり、認識できないもの同士の距離を測ることは困難です。

 * 相対性: 距離は相対的な概念であり、基準となるものがなければ、距離を測ることはできません。

 * 量子力学: 量子力学の世界では、粒子は波のような性質を持ち、位置と運動量を同時に正確に測定することはできないという不確定性原理があります。

まとめ

「感じられる」という言葉や、「自」と「他」の境界線といった概念は、非常に複雑で、一筋縄ではいかない問題です。これらの問いに対する答えは、人それぞれ、そして状況によって異なるでしょう。

重要なのは、これらの問いについて深く考えることによって、自分自身や世界に対する理解を深めていくことです。

もし、さらに深く議論したいことがあれば、いつでもお気軽にご質問ください。

例えば、以下の点について考えてみるのも面白いでしょう。

 * 動物はどのような感覚で世界を認識しているのか?

 * 人工知能は「感じる」ことができるのか?

 * 宗教や哲学における「自己」と「他者」の概念とは?

これらの問いは、あなたの思考をさらに広げるきっかけになるかもしれません。



それではまた。