修禅寺物語 ――明治座五月興行――


岡本綺堂


この脚本は『文芸倶楽部(ぶんげいくらぶ)』の一月号に掲載せられたもので、相変らず甘いお芝居。頼家が伊豆の修禅寺で討れたという事実は、誰も知っていることですが、この脚本に現われたる事実は全部嘘です。第一に、主人公の夜叉王(やしゃおう)という人物からして作者が勝手に作り設けたのです。
 一昨々年(さきおととし)の九月、修禅寺の温泉に一週間ばかり遊んでいる間に、一日(あるひ)修禅寺に参詣(さんけい)して、宝物を見せてもらったところが、その中に頼家の仮面(めん)というものがある。頗(すこぶ)る大(おおき)いもので、恐(おそら)く舞楽の面(おもて)かとも思われる。頼家の仮面(めん)というのは、頼家所蔵の面(おもて)という意味か、あるいは頼家その人に肖(に)せたる仮面(めん)か、それは判然(はっきり)解らぬが、多分前者であろうと察せられる。私が滞在していた新井の主人の話に拠(よ)ると、鎌倉では頼家を毒殺せんと企て、窃(ひそか)に怪しい薬を侑(すす)めた結果、頼家の顔はさながら癩病患者のように爛(ただ)れた。その顔を仮面(めん)に作らせて、頼家はかくの通りでござると、鎌倉へ注進させたものだという説があるそうですけれども、これは信じられません。
 とにかく、その仮面(めん)を覧(み)て、寺を出ると、秋の日はもう暮近い。私は虎渓橋(こけいきょう)の袂(たもと)に立って、桂川の水を眺めていました。岸には芒(すすき)が一面に伸びている。私は例の仮面(めん)の由来に就て種々(いろいろ)考えてみましたが、前にもいう通り、頼家所蔵の舞楽の面(おもて)というの他には、取止めた鑑定も付きません。
 頼家は悲劇の俳優(やくしゃ)です。悲劇と仮面(めん)……私は希臘(ギリシャ)の悲劇の神などを聯想しながら、ただ茫然(ぼんやり)と歩いて行くと、やがて塔の峰の麓(ふもと)に出る。畑の間には疎(まばら)に人家がある。頼家の仮面(めん)を彫った人は、この辺に住んでいたのではなかろうかなどと考えてもみる。その中(うち)に日が暮れる、秋風が寒くなる。振返って見ると、修禅寺の山門は真暗(まっくら)である。私は何とも知れぬ悲哀を感じて悄然(しょんぼり)と立っていました。その時にふと思い付いたのが、この『修禅寺物語』です。
 全体、かの仮面(めん)は、名作か凡作か、素人(しろうと)の我々にはちっとも判りませんが、何でも名人の彫った名作でなければならぬ。その面作師(おもてつくりし)というのは、どんな人であったろう。そんな事を考えている中(うち)に、白髪(しらが)の老人が職人尽(しょくにんづくし)にあるような装(なり)をして、一心に仮面(めん)を彫っている姿が眼に泛(うか)ぶ。頼家の姿が浮ぶ。修禅寺の僧が泛ぶ……というような順序で、漸々(だんだん)に筋を纏(まと)めて行く中(うち)に、二人の娘や婿が自然に現われる事になったのです。しかし作の上では、面作師の夜叉王と姉娘の桂とが、最も主要の人物として働いて、頼家は二の次になってしまいました。
 そんな訳(わけ)ですから、全部架空の事実で、頼家の仮面(めん)……ただそれだけが捉(つかま)え所で、他(ほか)には何の根拠もないのです。この仮面(めん)一個(ひとつ)が中心となって、芸術本位の親父(おやじ)や、虚栄心に富んだ近代式の娘などが作り出される事になったので……狂言の種を明せばそれだけです。頼家の最期は故(わざ)と蔭にしました。
 仮面(めん)の事は私もよく知りませんが、藤原時代から鎌倉時代にかけて、十人の名人があって、世にこれを十作(じっさく)と唱えます。夜叉というのはその一人(いちにん)で、実は越前大野郡(えちぜんおおのごおり)の住人ですが、夜叉という名が面白いのでちょっとここへ借用しました。この夜叉王は徹頭徹尾(てっとうてつび)芸術本位の人で、頼家が亡びても驚かず、娘が死んでも悲(かなし)まず、悠然として娘の断末魔(だんまつま)の顔を写生するというのが仕所(しどこ)で、最初(はじめ)から左団次を狙って書いたのですから多分巧く演(や)ってくれるだろうと思います。
 姉娘を演(す)る優(ひと)のないには困りました。源之助で不可(いけず)、門之助で不可、何分にも適当の優(ひと)が見当らないので、結局寿美蔵(すみぞう)に廻りましたが、本来は宗之助か秀調(しゅうちょう)という所でしょう。寿美蔵は飛(とん)だ加役を引受けて気の毒です。

「岡本綺堂随筆集」岩波文庫

$大林十姉妹-mekakusi

タリバンじゃないよ。