父とおでかけ
先週水曜日、父と博物館の企画展に行った。
終戦直後、米軍が当地で発行していた新聞の展示会だ。
ところが行ってみると前日が公休日の為、振替休館になっていた。
なので隣の史跡のある公園を散策。
霊所でもあるそこは、きれいに手入れされてはいるが、
所々うっそうとした木々の生い茂る場所もある。
父は植物とか自然の石積みとかが好きで
「ここを横切るとどこにでるかな?」
などと言って、草の生い茂るけもの道に入って行く。
私もその後を追ってみたが、斜面になっていて
互いに、ぬかるみに足をとられて転倒しないか心配だし、
次々と襲ってくるやぶ蚊の攻撃にひるむ。
「どうかな~。どこかに通じるかもしれないけど
この格好だと無理があるし、蛇が出てきそうだからやめよ~。」
それでも歩を進めるが、しばらくすると
「そうだな」
と、なんとか引き止めることができた。
普段、出不精な父なので、
こんな風に夢中になる姿を見ると、連れ出したかいがある。
なので引き止められ、残念そうな姿をみるとすごく悪いとは思うのだが
いかんせんこの、博物館の展示会仕様の服装では無謀すぎる。
冒険するならフル装備で付き合うので、今回は勘弁してくれと。
その後、父が先の戦の慰霊の塔がある施設めぐりを所望。
その施設には今でも多くの観光客が訪れる。
当時の父は確か12歳くらい。
その頃、当地の女子師範学校の生徒たちは
従軍看護婦として召集された。
海から艦砲射撃による雨のような砲弾、
空からは爆撃機による爆弾投下
地上においては戦車や火炎放射器による攻撃
危険な戦地で、壕の中、血と排泄物の異臭漂う劣悪な環境のもと
手当ての間に合わない患者の傷口からはウジがわき
うめき声や、正気を失った人の怒声をあびながらも
傷ついた兵士の手当てにあたっていたという。
戦況が思わしくなくなり、その壕を撤収する時
けがで歩けない友だちを、その場に残して別れることになるのだが
壕の外では、渦中をかいくぐらなければいけない訳で
もしかすると、このまま壕に留まったほうが生き残るのかもしれない。
しかし、敵に壕を見つかり、投降を拒んだ場合には
手榴弾を投げ込まれたりするという。
「生きて虜囚の辱めをうくるより…」との教えに従い自害することも多く
「今わたしが生き残っているのは、
あの時、その場に手榴弾を持っている人がいなかったから」
「生き残った人は運が良く、死んだ人は運が悪かったと言うのは
死んでしまわれた方に対して、大変申し訳ないことだと思う」
それらの証言が印象的。
実際、米兵たちによる捕虜の対応はまともだったという。
人間として扱われたことに対し感激の証言も見られた。
旧日本軍による情報操作で、かなり誤解があった模様。
残された重症患者には、
青酸カリ入りの牛乳が支給されることもあったという。
戦中も危険だが、司令官の自害によって解散命令の後も
水や食料もなく、あちこちに死体が転がる荒野、
生き抜くのに大変な苦労があったとのこと。
当時の看護婦さんたちの、その証言映像コーナーでは
修学旅行の学生さんたちや観光客に交じり1時間超あまり見入っていた。
この施設はこれまでにも、友だちの観光案内として訪れたりしたが
戦争の悲惨さと、平和について考えさせられる場所。
とかく癒しの島とか、きれいな海、楽しい観光で注目されがちな島ですが
過去のこうした出来事に、少しでもふれることにより
今後の社会のあり方にも、何らかの良い影響があると良いなと思います。
父は最近の日本の社会情勢が、
当時の戦に匹敵、あるいはそれをしのぐような、
大変な状態になっていると感じているという。
久しぶりの父とふたりでのお出かけは、充実した一日となりました。
後日今度は母とふたりで、先の目的の博物館企画展に訪れた。
そこで、面白い出会いがあり…
それはまた次の機会に記せたらと思う。
いつの時代も生き抜くには相応の覚悟が必要なのだな
と、ひとまずしめくくっておきたい。