私の幼少時代に、我が家に一枚の歌無しレコードがあった。

現代風に言うとinstrumental musicであるが、我が家にはタンゴのレコード以外は歌入りのレコードばかりだったので、そのすばらしい演奏力に感動したものである。

その演奏者は「古関裕而」とだけ書いてあり、幼い私はまさかこの人が作曲家であるはずがなく、単なるplayerだと思っていた。

「古関裕而ハモンドオルガン集」のようなタイトル名だったと記憶している。

 

私が16歳までオルガン奏者だったのは、このレコードがきっかけであった。

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古関自伝『鐘よ 鳴り響け』(昭和55年出版 主婦の友社)をひもといてみよう。

 

71歳の古関は次のように回顧している。


「(昭和22年頃)、進駐軍放送が始まっていたが、その終了番組に、ハモンド・オルガン独奏が毎晩あって、その音色が非常に多彩豊富で変化があり、幽玄な境地さえ表現できるので、私は、これを使おうと思いついた。菊田さんも独活山さんも、これに賛成。

 放送局には、ハモンド・オルガンが発明された2年後に1台購入してあった。時々パイプ・オルガンの代わりに使用されていた。奏者は、東京管絃楽団のメンバーであり、パイプ・オルガンも、アコーディオンも弾ける小暮正雄氏にお願いした。また一番大切なテユープラー・ベル(鐘)だけは、打楽器奏者でないと困るので、1名加えて演奏関係は2名と決まった。」

 「最初は順調だったが、だんだん台本の仕上がりが遅くなり、作曲が間に合わなくなりそうで、小暮正雄氏に渡すオルガンの楽譜もぎりぎり放送直前になったりした。また菊田さんの音楽指定が複雑になり、ムード表現の作曲はその場その場で、非常に微妙な変化を要求され難しくなってきた。それを伝える時間的余裕もない。ついに独活山さんは菊田さんと相談して、私自身がオルガンを弾くことになった。小暮さんには悪かったがそれより方法がなかった。小暮さんに電気的操作と、レジストレーション(音色構成)の基本を教えてもらい三か月目頃から私が弾くことになった。これが私とハモンド・オルガンとの最初の出合いであった。それまで鍵盤楽器を習ったことはなく、作曲する時にちょっとピアノを弾いてみる程度であった。」 
  
 「私の演奏が少し巧くなると、菊田さんの音楽効果をねらう要求は、益々細かくなり、せりふの間をぬって時々刻々の変化をせねばならなく、結局、即興曲のようなことになった。その間も即座に音色を変えられ、2億数千万種の音色が出るというオルガンの機能の魅力にひかれ、菊田さんの指定の個所で秒差の狂いもなく場面転換できたりし、二人で満足した。」

(写真 ハモンド・オルガンを前にした古関家 昭和27年 古関裕而記念館提供)