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つれづれ双子座について

先月に引き続き、MISTY連載の「ぶっちゃけ星座トーク」の裏verでも書いていこうかと思います。

あ、
の前に、、1点だけ。

前回の牡牛座についての記事の時は殊更に言い訳しなかったのですが、この「つれづれ~」はいわゆる太陽星座が○○座の人の性格やウンメイをに当ててみせるためではなく、星座という象徴システムが、本来内包しているにも関わらず当てもの星座占いみたいな文脈では言及しきれないテーマ性について、つれづれ掘り下げて日頃の鬱憤を晴らそう!というエントリーなので、そのへんご承知くださいませ。

さて、
今回は「双子座」。


■誤解されがちなコウモリ


双子座といえば、ギリシャ神話のカストルとポルックスという双子の話が有名だけど、どうもこの話のキモは死に別れた兄弟の悲劇性になんかではなく、あの世とこの世を「行ったり来たりする」という構図にある気がする。

そういう意味では、イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」の話の方が、双子座のイメージとしては分かりやすいかもしれない。

むかし鳥族と獣族が争っていたとき、鳥族には「自分には翼があるよ」と言って取り入り、獣族には「ねずみのような毛と牙があるよ」といって取り入って争いから逃れたコウモリというあの話。一般には「そういう卑怯な奴でした」「最後にはどっちの陣営からも仲間外れにされました」みたいな説教くさい道徳話のようなイメージがあるけど、実際には原文よんでもそういう風には書かれてないんだよね。

むしろ、2つの世界のどちらにも入っていけるという自分の特性を活かし、うまいこと機転を利かせて危機を切り抜けたデキる奴といったニュアンスだし、そもそもみだりに争いに参加したりせずに中立を保とうとする態度は「理性」の鑑と言っていい。

この理性を押しつぶそうとするのが、鳥であることや獣であることにこだわる集団的で感情的な圧力であり、それは集団を維持するための掟に従わないものを村八分にするムラ的な論理でもある以上、「卑怯な奴でした」でコウモリが片付けられる結末というのは、ある意味、「理性の死」を意味するバッドエンドに他ならない訳で。

個人原理より集団原理の方が優勢な日本のような社会だと、どうしてもコウモリに象徴されるような理性は、不敬罪よろしく非難されがちだけど、歴史を振り返ってみれば、重い信仰こそがしばしば「思い込み」となって重大な誤りを伴ってきた諸悪の根源であったし、コウモリ=双子座的な「軽み」があって初めて横断⇒和解のきっかけが作られる対立構図というのは世にまだまだたくさんある。

コウモリがかっこいいコウモリであり続けるには、「行ったり来たり」の領域横断を途中でやめることなく、「軽み」を保ち続けることが肝要だ。感情的にはどちらかに振り切れたほうが楽だし、中立を保つのは難しいことだけど、だからこそそれは意味のある挑戦でありえる。

これ占いにひもづけるなら、科学か真理か、とかね。統計なら統計、ドグマならドグマって割り切った方がそりゃラクだけど、あえてそうしないことが知的誠実さでは?という支点は忘れちゃいけない。



■遊体としての蝶

「軽み」という言葉を使ったけれど、むろんその背景には蝶のイメージがある。
あの世とこの世を「行ったり来たり」するのは人間においては魂だけれど、ギリシャ語において霊魂(プシュケー)という言葉はそのままずばり蝶をあらわす語でもあったりする。

この人間の魂が蝶に象徴されるという考え方は、ギリシャだけでなく琉球やインドネシアなどのアジア圏も含めて、それこそ世界中の言い伝えや信仰の中で見つけることができる。

日本でも、戦国時代の合戦場跡には無数の蝶が群れ飛んだという話が残っていて、これなんかは古代ギリシャ人が人間の魂は1つの生命からほかの生命に移るとき、飛ぶ虫の体を借りると信じていた感覚と近いものを感じる。

また、地上を這うようにしてその生を送る毛虫が、さなぎとなることで変容を遂げ、やがて天上的な翼をもった姿へと生まれ変わることから、蝶は再生や復活を象徴としても考えられてきた。

例えば、キリスト教では蝶はずばり<復活>を指すし、その成長段階が、イエス・キリストにおける生→死→復活になぞらえられ、しばしば幼子イエスは蝶を手にしている姿で描かれてきた。

こうして考えてみると、領域横断的な「行ったり来たり」は、芋虫がさなぎをへて蝶へと姿を変えるような劇的な「変身劇」なのであり、それは文字通り、言葉では語りようのない「身(ミ)」の深部で起こる根本変化で、それゆえ「密議」や「秘儀」と呼ばれてきたのだろう。

ともあれ、領域横断的な身の特徴は有翼ゆえの「軽み」であるが、そうした身体性というのは、一般的な社会生活の基準からすれば、遊んでいる子供と同じで、

・おぼつかない(非効率)
・あやうい(不安定)
・むだ(非生産)

な忌避or矯正すべき対象としてしか写らない。したがって大人がちょくせ目を光らせて「監視」するか、あるいは冒頭の「卑怯なコウモリ」のような道徳や、慣習、法律などで、間接的に沈静化し、固定化することで、自分の世界の秩序を保とうとする。

けれど、世界というのは1つではなく、いつだって2つなんだということを思い出す必要がある。

ちょうど荘子の「胡蝶の夢」で、ある日旅先で自分が蝶となって野原を自由に飛び回っている夢を見た男が問うたように、自分が蝶となる夢を見ていたのか、それとも蝶が自分となる夢を見ているのかという2つは、どちらかが虚偽として斥けられるべきところのものではないのだと思う。

長くなったのでここまで。

では