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神保町にて占いについて思うこと

きのう。夕方ごろから、
神保町のブックフェスへ行ってきたSugarです。


この街にくると、昔近所にあった、
記憶の中の古本屋に帰ってきたような気がして、
毎回なんとも言えない懐かしい気分になります。


薄暗い室内に、背の高い本棚。
店内のすりガラスから外を振りかえると、
外の喧騒がずっと遠くに感じられ、
店の奥へと進むにつれ、異様に静かになっていく・・・。


そんな、
まるで時間が止まったかのような店の一角で、
古本特有のあのにおいを嗅ぎつつ、
かわいた埃のように降りつもった言葉の気配に
耳を澄ましているのが好きだったなー、


なんて、思い出しつつ、
フェス会場へ向かったんですが、
なんと雨のため早期終了で店じまい中!
ということでほとんど見れず。。鼻血


結局、いつもいく小宮山書店へ行って、本を4冊購入。


親鸞『教行信証』(岩波文庫)
藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書)
小川方夫『夏の葬列』(集英社文庫)
・『ドイツロマン派全集第二巻・ノヴァーリス』(国書刊行会)


しめて千円弱也。(安いビックリマーク


もっとも、
本を買えば知識が成るわけじゃなし、
積読はできるだけ避けたいものです。。
(さいきん積読傾向がひどいので)


いい「占い」をするのにも、
自分の「ことば」を回復する習慣のひとつでも
常日頃から意識して持っていないと、
すぐにダメになってしまいますしね。



▽△▽


それにしても、
多くの人の心を通り過ぎたたくさんの言葉が、
集められ、積まれ、古本という形で眠っている神保町というのは、
ほんの一瞬で、自分に必要な言葉や情報を取得できるようになった
いまのネット社会とは、実に対照的な雰囲気を持っている。


ネット業界の一部では、
インターネットの発達によって、
人や社会は情報取得の「速さ」を得た代わりに、
「深み」とか「深まり」を失った、なんてことが
なかば自虐的に言われているようですが、
これは「占い」の世界にいても実感する部分があります。


たとえば、
一般に「占い師」というものに人が向ける意識というのは、
自分が考えたこともないような遠大な思想を教えて欲しいというより、
自分しか知らないはずのことや、
これから自分の身近で起こるであろうことを、
「ズバっと言われたい!」
という場合がほとんどです。


だからたまに、
調子にのって長々と巷説たれていると、
「占い師」へ無意識裡にズバット願望を抱いている人から

「で、結局(あなたの)占いって当たるの?」

と不意打ちされる羽目になるw


そう問う側の意識としては、大抵の場合、
占い師の発する「ことば」の実用性や即効性を質している訳だけど、
そうした、
「私の人生にいつ現実的な利益がもたらされるか?」
という「速さ」の次元でことばに臨むと、
当たる「効率性」のみにスポットが当たってしまって、
そこで交わされた「ことば」がどうやって深まるか?
という視点をどうしても見失いがちになります。


でも、
そうした視点がないがしろにされたところには、
占い師の「ことば」にほとんど居場所はないんです。
(たとえ占いの一部が仮にバッチリ当たっていたとしても)


というのも、
もともと占いというのは、
そのときどきに現れた「タイミング」や「かたち」から
人間の意識の片隅へと贈られた詩(ことば)を読む営みであって、
詩という形式の「ことば」は、
水平的な「功績(意味)」との関係よりも、
ただ自分の無力さを感じたり、まったく思い通りにならない次元で、
何と闘い、何を受け入れるのかという
垂直的な「価値(強度)」と深く関係を持つものだから。


自分のいる世界のなかで、
現在の自分がどう位置付けられているのかを思い出す。
その自らを語る「ことば」のリアリティーを、
回復するための手助けのひとつが、
たまたま占いなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
よく言われているような
「宇宙の真理」でもなければ、
「数千年の統計学」なんかでもないんです。
あくまで占いは「ことば」!



じゃあ、
「占い」はまったく「当たらない」か?
と言うと、
そうでもないところが面白い。
というか、思いっきり
訳が分からないw


おそらくそれは、
世界や人間の生というものが、
具体的に見え、触れえる功績によってのみ作られている訳ではなくて、
むしろ、ひとりひとりの心によって感じられた
価値によって作られている部分が、少なからずあるからなんでしょう(と言う他ない)。


その限りでは、占いは「当たる」ことが確かにある。


だからこそ、
「この占い師の占いは当たってるかどうか?」
という「速さ」についての問いを抱え、
数多いる占い師の間を「当たる」まで奔走するよりも、
やはり
「この占い師のことばにワタシは何を感じるか?(あるいは感じないのか?)」
という「深さ」に関する問いを持ってもらった方が、
本の味わい方と同じに、
より占いの楽しみ方としては正しいように思う訳です。


(「正しい」というのは少し違うかな。「近い」、とか「本質的だ」と思う・・。)


そう、
「占い」の中身は、
ことばのリアリティーが失われた時代の、
ことばの話で、
なんでこうも、ことばのリアリティーが失われたのかなー
と考えると、
どうもインターネットが象徴しているような、
「すべては知識として整理され、いつでもアクセスできる(だからあえて知る必要もない)」
というような気分(未知の喪失?)と関連してくる気配( ´(ェ)`)


まぁこういうことは、
またさぼうるにでも行って、続き考えまーす。
(思考内容ってけっこう場所に対応するので)