いつも失敗するから敢えてダウンコートの下は薄着にしたのだが、これはまた失敗したなと思った。コートの裾から冷気が首元へ上がってくるようだ。意外と寒かった、とマフラーに顔を埋める。手袋を持ってきてよかった。

少し歩いた所で眼鏡を外した。出てくる前に少し悩んだが、とどのつまりはコンタクトを付けるのが面倒だったのだ。冬に眼鏡とマスクを同時につけるほど嫌なことはない。息をする度に眼鏡がいちいち曇るのだ。あれは自分からすると地獄である。

そうなると、マスクをするためにはコンタクトを付けなければならない。しかしそれを却下するのであれば、マスクを諦めなければならない。結論、マスクを諦めた。それで眼鏡で外へ出たものの、結局眼鏡を外してしまった。それは何故か。

理由は単純だ。マスクも眼鏡も、根本は顔を見られたくないからだ。

マスクは顔の80%近くを隠してくれる。不精な自分は、休日まで公に晒すのが可能な顔面を作るなんて面倒なことはしたくない。手っ取り早く、マスクで隠してしまえばいい。

しかし、今日はマスクという選択肢を放棄した。その結果の眼鏡なのだが、残念なことに自分は破滅的に眼鏡が似合わない。「眼鏡が似合わないのではなく、似合う眼鏡を掛けていないのだ」と大学の友人に教わり、成る程と納得したのは今もいい思い出だ。未だに職場の同僚に話すくらいに。

だから正直、外した理由は眼鏡を掛けている顔を見られたくない、というのが大きい。プラスアルファで、これは休日だからという言い訳もさせて貰いたいが、とにかく人と目を合わせたくなかった。確か何とかかんとかという名前も付いていたような気がするが、人がこちらを見ているという錯覚を覚える、という現象。自分は大いにあれが当てはまる。勿論、それが思い込みであることは知っている。考えてみれば、思い上がりもいい所だ。見ず知らずの他人が、単にすれ違うだけの自分を見る筈もない。だがそう感じてしまうのだから仕方ない。偶々視線を向けると大体タイミング悪く目が合ってしまうのも原因の一つだ。何でいつも同じタイミングでこっちを見るんだ。じろじろ見られている気分になる。外を歩く時、自分が人の顔を殆ど見ない理由がこれだ。見られたくないから見ない。お陰で、例え知人がすれ違っても気が付かないが。

平日であれば、職場内ではそうもいかない。すれ違えば、上の立場の人間には挨拶をしないといけない。だから最低限の確認はする。人付き合いとはそういうものだ。普段あまり意識はしていないが、自分の中では割と気を遣っているらしい。休日は休日モード、と自覚し始めたのは最近のように思う。休日も職場へ行くことはままあるが、話し掛けてくれるなと言わんばかりの雰囲気を醸し出している自覚はある。イヤホンを外そうともしない辺り、ほぼ9割故意にだ。休日まで同僚に気を遣うなんて真っ平御免なのだ。

 

眼鏡を外せば、途端に世界がぼやける。何一つ明瞭な点を結ばない視界は酷く落ち着いた。辛うじて歩道を動く存在が人であると判断できる。顔も何もあったもんじゃない。外した眼鏡をどうするかと少し考えて、ポケットに仕舞った。この眼鏡がやや度が強い。少しは外していた方が目も休まるだろう。

何もかもぼんやりとした視界だが、色はある。石垣の暗い灰色、イチョウの鮮やかな黄色、空の青色。その現実にいつも心から感謝する。何を失っても、これだけは失いたくないものだ。0.1を遥かに下回る視力でも、「見える」ということは自分にとって何より大事なことだった。視力と右手を失ったら殺して欲しい、というのはいつから願い始めたかもう憶えていないが、今でも切なる願いの一つだ。

イヤホンで静かな歌を聴きながら、焦点の合わない色鮮やかな世界を足早に歩く。こんな状態で歩いていたら、世論的には視力も聴力も奪われて危険だろう、と非難の一つでもされそうだ。全くその通りだと開き直る。何かあれば迷惑を掛ける可能性が高い自覚はある、だから掛けないように極力努力はする。努力するだけだ。改善はしない。こういう輩がいるから事故は無くならない、それも全く以てその通り。ぐうの音も出ない。

人の視線も気にならない、何を見た所でどうせ見えはしない。早速思考を別の世界へと向ける。最近また大きく変わりそうな気がして、というかそれは必然であると理解はしているのだけど渋っている、そんなまとまりのない、収拾のつかない愛すべき自身の世界だ。

これもつい最近のことだが、果たして独りでいる時の自分は知人からどのように見られているのかと、はたとそんなことを疑問に思った。独りでいる時、自分の思考の90%超を占めるのはあちらの世界だ。だから独りで歩いている時、笑うこともあれば泣くこともある。楽しそうな姿を想像すれば思わず笑ってしまうし、悲しい事実を知らされれば涙も出る。今までは楽しいからと別段考えたことも無かったが、こんな人間は傍から見るとかなり気持ち悪いな、と改めて自覚したのがつい最近なのがまた自分らしくて笑ってしまった。結局、楽しいから変えるつもりもないのだが。

人の顔も判別できないこの状態なら、思わず笑ってしまった所で偶々通りすがった人からの奇異の視線も感じることがない。頭がおかしい人だと思われても苦ではない、所詮見ず知らずの他人だ。そんなことを気にしている暇があるくらいなら、自身の世界を愛していた方が余程生産的だ。

 

買い物を済ませて、帰りがけにマックで昼飯兼夕飯を買って、家路についた。右手に不健康極まりない外食の袋を提げている一方で、左肩には野菜諸々に林檎とヨーグルトを詰めたマイバックを掛けている。極端だとは思う。人によく健康志向だと言われるが、単に野菜の方が好きで肉があまり好かないだけだ。この嗜好もいつからなのか思い出せない。マックは好きなのだが。

今の借家には概ね満足しているが、近くにマックとミスドが無いのは個人的に大いなるマイナス点である。逆に言えば、この二つが近くに無いから自身の健康が保たれていると言っても過言ではない。…と思う。自覚はしているが、自分の欲望にはかなり甘い方だ。

無論、マックは好きだが毎日マックへ行きたいとは思わない。偶にあのジャンクフードが食べたくなる、それくらいの感覚だ。できれば月イチくらいが理想だが、家から微妙に距離があるのでなかなか行く気が起きない。特に寒い季節は、帰宅するまでにコーヒーが冷める。温め直せばいいだけの話だが、楽をするために買い食いをするのだから全力で楽をしたい、という思考は我ながらなかなかの屑だと思う。似たような理由で、夏はフルーリーが溶けるからまた足が向きづらい。ちなみに店内で食事をするという選択肢は頭に無い。

そして何より最大の原因は、気紛れ過ぎる自分の頭である。気分屋、という自覚は有って余りあるレベルに至っている。明日はマックへ行くぞ!と決めても、翌日になるとマックの気分ではなくなっていることも多い。それならまだマシな方で、マックへ行こうと外へ出たのに歩いている間にマックの気分でなくなることもある。正直な所、自分でも自分の気分屋っぷりに困ることがあるのでこれには何も言えない。あとは、持ち前の優柔不断さが爆発して何を食べるか決まらない時だ。その時に食べたい物が判らないとメニューを前にうんうんと悩んでしまって、結局悩むこと自体が面倒になって放棄してしまう。

今日何事もなくマックへ行けたのは、季節限定のグラコロ販売が始まったのを思い出したからだ。実は先週もマックへ行く機会はあったのだが、目当てのグラコロが始まっていなかったし腹が減っていないからと食べなかった。ついでに、最早いつから食べようと決めていたか思い出せないシナモンメルツも買ってしまった。販売が始まった割と初期に見たハズなのだが。大体いつもこのパターンで目当てを逃しているから、今日こそはと決意を持って出掛けたのだ。夏のマックシェイクヨーグルト味を逃したのは痛かった…。

買い物袋の中身を適当に仕舞って、いそいそとコタツに入って早速紙袋を開ける。マックのセットはほぼ100%ポテトから食べる。理由は自分でもよく分からないが、いつからかそれが自分の中でのルールになっていた。ポテトを貪る。マックのポテト程身体に毒だなぁとしみじみ感じる食品もなかなかお目にかかれないと思う。大好きだけど。

次にグラコロを取り出して、少しだけ安心したような、残念なような気持ちになった。あまり大きくなかったのは今の状況的に助かる。ジャンクフードを食べる時、カロリーは考えないようにしているがそれでも想像するだに恐ろしい。これが大きかったら戦慄する所だった。それはいいが、やはり小さくなったな、というのが本音である。小さい頃はテリヤキバーガーが好きでよく食べていた記憶があるが、明らかに今より大きかったと思う、全体的に。これでは「あの小さいバーガーにあの値段を払いたくない」と言っていた同僚の言葉にも頷けるかもしれない。同僚推しのモスに鞍替えする気は全く起きないが。目の前のモスに入るくらいなら1km先のマックへ行くのが自分の主義だ。

ん、と気になる味を感じて口を離してみると、予想通りグラタンの中にエビが見えた。…エビ入りだったか、とやや評価を下げる。まあ、もう今季中にグラコロを食べることもないだろう。こういう季節限定モノは一回食べれば満足する。自分の中でも食品としてのエビは不思議な立ち位置に存在する奴で、食べたい時と食べたくない時がある。好きかと問われるとそうではなく、ならば嫌いかと問われるとそこまででもない。どっちかと言えば後者のような気もするが。強いて言えば茹でられている方が好みかもしれない。自分では食料としてまず買わない、そんな奴なのだ。どうやら今日の自分は食べたくないらしかった。

別段、無理して食べている訳ではない。ちょっとした好みの問題だ。食べたい時は喜んで食べるし、食事で同席する人物に気を遣わせたくもない。嫌いなものはあるか、と訊かれると地味に困るのは相変わらずだ。「好きではないが食べられる」ものの圧倒的多さは自身の厄介な短所だと常々思う。トマトとセロリとレバーは大嫌いだが。

グラコロを平らげ、お待ちかねのシナモンメルツ、と紙袋を覗き込んだ所で底に落ちていたポテトを1本見つけてしまった。途端にテンションが下がる。ばっかり食いを止めろと小さい頃から母親に叱られて育ったが、結局その癖は治らなかった。ポテトの次にバーガーという順序が乱されてしまい、苛立ちを覚える。バーガーの後味にポテトが混じってしまうではないか。予定通りの味が狂うのはストレスだ。臨機応変という言葉に縁の無い自分は、予期せぬポテトの刺客を忌々しげに齧った。

 

甘味には苦味が必要不可欠だと思っている。甘いチョコを食べる時、無性にコーヒーが飲みたくなるのは何故なのか。苦味が欲しいなら苦味だけ摂ればいいものを。逆も然り。この現象にもきっと何とかかんとかという名前が付いているんだろう。これについては知らないし、調べたこともない。

ここ10年近く、マックで買うドリンクは100%コーヒーである。コーヒーが飲めるようになる以前は爽健美茶だった。これには家族から批難轟々だったし、今も周囲に話すと割と驚かれる。世間一般には、マックにはコーラまでがセオリーらしい。あんな身体に悪いもん食って、更に砂糖水まで飲むのかよ、とは口に出さずいつも思う。胸やけしそうだ。

早足で帰ってきたからかコーヒーは大分冷えていたものの、まだ人肌以上の温度を保っていた。ミルクを入れてかき混ぜ、口に残ったポテトの味を洗い流す。そしてうきうきしながらシナモンメルツの箱を開けた。冷えてクリーム部分が固まってしまっているが、それでも嬉しいものは嬉しい。フォークをパン生地に突き立て、早速一口味わった。ああ、幸せだ。現時点で消費カロリーがとんでもないことになってるとか、そんなことは最早どうでもよくなる。

思い出せないついでに、このシナモン好きもいつからなのか思い出せない。昔は好きではなかった、というのは朧げに憶えている。どちらかと言えば苦手だったと思う。それがいつからか大好物になってしまった。映画館に行けばシナモン味のチュロスをほぼ毎回買うし、ミスドでシナモンドーナツが売り切れだとがっかりする。スタバのシナモンロールのカロリーを知った時は控えようと心に誓った。近くに新しく出来たカフェのシナモンロールが悪魔的な美味しさで、仕事のストレスがマッハで二進も三進もいかなくなった時だけここに来よう、と決めたのも記憶に新しい。但し、チャイティーだけは昔飲んで気持ち悪くなったのがトラウマで、未だに大の苦手なのだけれど。

ぱくぱくと食べ進み、コーヒーを啜る。甘味と苦味。贅沢なものだ。これも理由は知らないが、コーヒーには絶対砂糖を入れない。甘味と苦味が欲しいならコーヒーに砂糖を入れれば解決する気もするが、どんなに旨いコーヒーも砂糖を入れた瞬間に興味が無くなる。大袈裟だが、コーヒー中毒者の自分にとっては割と死活問題だ。砂糖の入ったコーヒーなんて想像するだに恐ろしい、という所まで来てしまっているのだから。

シナモンメルツの入った容器の底に、いかにも身体に悪そうな黒く変色したクリームの残骸がこびり付いている。でも美味いんだよなぁ。おこげが美味いと言ってるのと同じようなもんだろう。こっちはカラメルか?まあ、いずれにせよ炭にしか見えないけど。焦げを見る度にメイラード反応という単語を思い出すのは最早癖だ。メイラード、メイラード反応…それに伴って大学時代の恩師の一人と、そのラボに所属していた友人を思い出すのも癖だ。だから、記憶力の弱い自分でも彼らのことは今後も忘れないのだと思う。

恐ろしいカロリーを消費して、目的が無事達成されたことに満足する。また暫くマックはいいだろう。これまた心外なのだが、自分は周囲から少食だと思われているらしい。これを笑うのは家族である。身内は自分がどれだけ食う奴なのかを知っている。バイキングへ行くと大体引かれるのにももう慣れた。少食ではなく、単に普段はセーブしているだけだ。そりゃあ、いつもお腹いっぱい食べたい欲はある。あるが、そんな食生活をしていたらあっという間に太る未来しか待っていない。特に母親の家系は太りやすい体質だ。気を付けないとすぐに太ってしまう。父親はいくら食べても太れない体質なのだが。残念なことに、自分が色濃く受け継いだのは母方の体質だ。性格は父親譲りなのだけれど。こう書くと、二人の少々残念な面をそれぞれ受け継いでしまった気がしなくもない。言ってもしようがないことだけれど。

 

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何となく文書く練習がしたくなって書いてみた