幾つ季節が巡っても、変わらぬこの想いを。
レミオロさんの『Sakura』、イイですね。柔らかなピンク色の風景が浮かんでくるようで好き。
大抵アーティストさんの歌を聴く時は、曲調やメロディだけであーこれ好きだわなんて漠然と感じてるだけなんですが(つまり歌詞無視or二の次)、レミオロさんは歌詞も好きです。
理想ですけどね。歌詞なんてそんなもの、寧ろ歌詞だからこそ願望や希望を一杯に詰め込めるのかも。
そりゃ幾つもの季節が巡ったら、想いも変わるでしょうよ。
それを知ったのはセカチュー読んでからですが。思えば、あれを読む以前の自分は現実を知らなかったのか。
尤も、今でも実際に知っている訳では無いですけどね。
セカチュー読み終わった直後は憤慨したもんです。ああ若かった。
忘れることが大切になることもあるとは思います。
忘れることと変わることは違いますが。でも前提にあるのは忘れることかな。
どっちが先なんだろう?人に依るか。忘れるという要素すら無いかもしれない。
どちらにせよ、いつまで経っても変わることが出来ないなら、それはそれで辛いことかと。
人間は永遠でもないし、至極あやふやで常に更新し得る存在ですから、変われないなんてことは起こり得る筈も無いと思ってますがね。
変われないと思ってるんなら、それは単なる思い込み。
とは言いつつ、忘れてはならないこともあるのは、いつの世でも当たり前な訳で。
価値観は人それぞれですが、一般的に忘れてはいけないものの方に分類されると思しきもの。
今日、先代・先々代飼い犬の墓参りに行って来ました。
ボックスの中に置いてある写真を見て、自分は首を傾げた。
黒「1匹足りなくね?」
兄「は?」
黒「今飼ってる犬って何匹目だっけ…」
兄「3」
黒「ああ、そうだっけか」
写真を見れば、思い出されるのはその犬の最期の情景ばかり。
母さんに連れられるまで墓があったことすら忘れかけていたのに、なかなか共有した時間までは忘れられないもんだなと感じました。
1匹目の死は、当時小学だった自分にはよく解らないものだったらしい。
死ぬ前日は雨だった。冬に近い季節だったから、寒かったのはおぼろげに憶えている。
学校から帰って来たら、このクソ寒いのに犬小屋から出たまんまで雨に打たれている飼い犬が居た。
何やってる?と傘を差して暫く一緒に外に居た。
そのままいつまでも動かないから、小屋に入りな、と一言言ってから家に入った。
次の日の朝、もう死んでた。
兄貴が泣いた。
兄貴が泣いてるな、と珍しがってる自分が居た。
2匹目の死は、高校の時。早過ぎたけれど、色々あって行き着いた結果だから仕方無いとは思ってる。
部活中に、母さんから電話が来た。母さんが泣いてた。
すぐに帰るよ、と言って部活を抜けた。
電話口で母さんが泣いてた声を聞いても、死んだと聞いても、涙が出ない。ああ、死んだんだと。
泣く気も起きないから、このまま自分は泣かないんだろうかと思いながら帰った。
家に帰ったら、犬の周りに家族が居るもんで、死に顔も見ないまま居間の椅子に座った。
そして思い出した、犬と一緒に過ごした時間のこと。
そしたら、その時初めて涙が出た。
もう死んでるんだということを実感したからかもしれない。
普段は忘れてます、そんな昔のこと。
でもきっと、失ったあの悲しさは忘れられない。だから犬を飼うのは嫌いになりました。多分猫も要らん。
何故って、先に死んじまうから。悲しい思いをしなけりゃならない。
どう頑張ったって、もう犬が居ることが生活の一部になってる以上、居なくなったら悲しむ他無いんですよ。
いくら愛玩動物だの何だの言って距離をとっても、心は痛むもんなんです。
どうせ先に居なくなる、居なくなると悲しくて心が痛くて涙が出る、そんなら最初っから居ない方が良い。
この考え方は当分変わりそうにない、ですが…
もしかしたら、いつか変わる時が来るかもしれませんね。
その前に、アイボに手を出す可能性の方が大きいかもしれない。