「下」


***は即答した。


「おっし、左は測定不能。右目は設定通り、2.5だな。どうだ?何か見えにくいとか、あるか?」

「いや。快調そのものだ」

「そりゃ良かった。腕も脚も問題無さそうだし、今回はこれにてメンテ終了だな。お疲れさん」

「ありがとう。いつも助かる」

「なーに、気にすんなって。俺の仕事だし、何かあったら俺の沽券に関わるしな」


彼はそう言うと、そこらに散らかした器具一式を片付け始めた。自分もそれを手伝う。

そういえば、と先刻彼がちらりと言っていたことを訊いてみることにした。


「大陸に行ってたって?何しに行ったんだ、一体」

「え?ああ、それか。んー、野暮用ってヤツかな」

「何だそれ」

「まあ、色々あるんだよ、俺にも」


最後に残っていたドライバを手渡すと、彼はサンキュ、と言ってそれを工具箱の中に仕舞った。彼が常に肌身離さず携帯しているその箱は、幼少時から愛用している物であるらしい。あちこちにガムテープで補修がなされている。

好い加減使い古した感があるが、それでも尚、その箱は彼の手の中で誇らしげだった。


箱を少し大きめのバッグ(これも彼がいつも持っている物だ)に入れた後で、彼は胸元のポケットから煙草の箱とライタを取り出した。煙草の銘柄に関しては、彼がRAINBOW以外のものを持っている所は見たことがない。


「吸うかー?」


煙草を咥えている所為でちゃんと発音出来ていない、何とも間抜けた声。

掴めない男だ。


「あ!そうそう、思い出した」

「、ん?」


丁重に遠慮しようと言葉を言い掛けた途端、一方的に遮られてしまった。


「コレ。土産買って来た。お前に渡そうと思って」


そう言って渡されたのは、表面に不可思議な模様が彫り込まれている、銀色のやや扁平な筒状の金属。

これって…。


「…ライタ?」

「ピンポーン。ちょっと遅くなっちまったけど、誕生日プレゼントってことで」

「誕生日って…」

「お前がoakに来てから1年。hallの奴が言ってたぞ、お前の誕生日がわからんもんだから、お前が来た日を誕生日にしたって」

「ああ、それはそうだけど」

「1歳おめでとー。パチパチパチ」

「観察期間が1年あったから、正確には2歳だが」

「あ、そうなの?なんだ、じゃあ2歳おめっとさーん」

「…どうも」

「点けてみ、それ」


言われた通りに点けてみる。

キン、という高い音が空気を裂くように鋭く響き、一瞬の余韻を残した後で消えていった。

小さな炎が、僅かな風に揺らめいて時折ぐにゃりと曲がる。


「それ、Nashikの。目的地はZetfordだったんだけど、帰りにちょい寄ってな。老舗のブランドものだぜ」

「へえ。じゃあ、この模様はNashikの?」

「ああ、何かまじないの一種らしいんだが…まあ、あれだ。“人生楽しく生きて行こう”みたいな意味らしい」


人生。

少し前までは、考える必要性すら微塵も感じていなかった。

長い長い時を、薄暗い牢屋の中で過ごすものだと信じて疑わなかった。


「そんじゃ、これはついでってことで」


そう言うと、彼は持っていたペンで煙草の箱に何やら書いた後、それをこちらに投げて寄越した。慌ててキャッチする。

手を開いてみると、そこには“DEAR ***”と書かれていた。


「…相変わらず、汚い字だな」

「素直に喜べよ。ンな細けぇこと気にしてると、彼女に振られるぜ?」

「、余計なお世話だ」


不覚にも、一瞬ではあるが咄嗟に言葉に詰まってしまったのが失敗だった。彼はからからと笑い、自分は頬が熱くなるのを感じた。


「あーらら、照れちゃって。ったく、お前はホント素直だよな」

「五月蝿い。それより、これも貰っていいのか?好きなんだろう、この銘柄」


図らずも拗ねた様な口調になり、彼はますます笑った。


「煙草なんざいつでも買えるわな。あ、そーだ。エチケットは大切だからな、コレもついでのついでにやるよ」


お古で悪いけどな、と彼が差し出したのは、簡易携帯用灰皿。

何となく馬鹿にされているような気がして腹が立ったが、素直に受け取っておいた。また何か言ってからかわれたのでは堪らない。


「お前はあんまし吸わねーだろうけどな。ま、その方が長生きするってもんさ」


ただでさえ普通のヒトよりも長く生きなければならないのに、さらに長く生きてどうするのか。

しかしそれは言葉にせず、曖昧に相槌を打っておいて、柵に凭れ掛かっている彼の隣に立った。



彼の横顔が見える。

もうすぐ陽が落ちる。西の空は茜色に輝いていた。




色々、と言っていた。俺にも色々あるんだよ、と。


それはそうだろう。一見すると何の悩み事も無い程に明るく見える彼ではあるが、彼の置かれている立場は非常に特殊であり、複雑でもある。それは周囲の親しい人間から聞かさているし、数は少ないが本人からも聞いていた。


現第八研究所所長の一人息子。

彼が親と呼ぶのは3体のhumanoidであり、実父ではない。

実の母親に関しては、顔も知らないらしい。

幼少時から機械工学分野における才能を発揮し、若いながらも技術屋としての腕はoak随一と囁かれる。

その人柄の良さもあって、島中で彼を知らない者は居ないだろう。


ひょっとしたら、大陸へ行ったというのは父親の仕事の関係で一研へ行かされたのかもしれない。

若しくは、個人的に仕事で呼ばれたか。或いは、全く別の理由だろうか。

彼が何も言わない以上、追及するのは憚られた。考えた所で無駄だと思い、その思考を停止する。


そのまま暫く、紫煙を燻らせる友人と共に夕焼けの空を眺めていた。




「やっぱ、oakの空が俺にはイチバンだわ」


ぽつりと呟いて、彼は腰ポケットを弄った。「あれ?」


「…これか?」


さっき渡された携帯用灰皿を見せると、「あそっか、あげちまったんだった」と彼は今更の様に言った。

ふ、と笑いが込み上げる。彼もばつが悪そうだった。


「いいよ。元々はお前の物なんだ。使ってくれ」

「悪りぃな」


苦笑いしつつ火を消すと、彼はさて、と言って荷物を持った。


「長居して悪かったな。そろそろ帰るわ」

「ああ。こちらこそ、いつもすまない。ありがとう」

「どういたしましてー。具合が悪くなったらいつでも言ってくれよな」

「ああ」


病院の入り口まで送って行って、そこで彼とは別れた。


「またな」

「ああ、また」


彼はいつもの様に笑って、軽く手を振った。自分も返した。


また、明日。明日でなくとも、また会えると信じて疑わない。

それが崩れることは、その言葉を口にする時、誰も想像もしないことだろう。

自分もそうだった。






azureは、ひとつ嘘をついた。

彼はこれが、最後の別れになることを知っていた。


けれど、それは一部の人間を除いて誰にも知られることのない、孤独な真実。



*          *          *


で、半世紀後くらいに再会するっていうのは、また別のお話。