『だから、これを最後にしとこうか思うて』
彼はそう言って、一息置いた。
『なあ、***。…もう、やめへんか?』
何のことは無い、これまで何度となく聞いてきた問いだ。それを最後にすると、彼は言っているのだ。
何故だろう。
返答は決まっている。自分がそれを肯定することは有り得ない。
いつもこの問答を繰り返す度、不毛だと思ってきた。恐らくは、相手自身も。
自分の心は固く固く閉ざされている。もう迷うこともないと、随分前に鍵を掛けた。否、迷ってはいけないのだ。
なのに、彼にこの問いを向けられると、不意に心がぐらりと揺れる。眩暈すら憶える様な、そんな感覚。
そして、それが一瞬心地良いと感じる自分が居る。
病的だ。
きっと、自分は彼に、ずっと問い掛けていて欲しいのだ。
彼は毎回この問いをぶつけてくる訳ではない。この変化の無い空間の中で、それでもほんの少しばかり何かがあった時―――そういった時に、不図問い掛けてくる。
時には、熱く。そして時にはこんな風に、とても静やかに。
「……すまない」
暫くの沈黙の後、自分はそう言った。
全てを断ち切ってしまう気がした。彼との繋がりも、何もかも全て。
けれど、自分は応じてはいけないのだ。それは十分過ぎる程理解している。
何故だろう。何らいつもと変わらない、寧ろ声を荒げて否定することも少なくなかった筈なのに。
今は、返事をするのがとても苦しかった。
『…そ、か。……わかった』
また暫くの間があって、彼はそう呟いた。
『そやな。お前がそう言うなら、もう何も言わん。それでええよ。悪かったなァ、口出しはせえへんて言うたのに今まで散々問い詰めて。…それでお前のこと、いっつも苦しめとった。ごめんな、もうせえへんから。これっきりにするわ』
そう言って、人懐っこい愛嬌のある笑顔を見せた彼はもう、いつもの彼だった。堪忍な、と片手で手を合わす仕草をする。
彼のそういう所が、好きだ。
彼とはどんなに大喧嘩をしても、後腐れなく付き合っていける。彼にはそんな、不思議な長所がある。
人間が持つには、少し難しいものだろう。
だからこそ。
そんな彼を相手にしているからこそ、後ろめたさが残った。
本当は、ずっと問い掛けていて欲しい。まだこれからも、何度でも。
思っていた以上に、彼に依存していた自分に気が付く。
彼が問い掛けてくる度、自分の心は揺さぶられた。
彼が真実を突きつける度、脆い部分がぱきぱきと音を立てて剥がれ落ちた。
だから、その度に自分は心をより強固なもので再構築していった。
そうやって、自分がやっていることを意味在るものだと正当化したかった。
もう、壊れてしまわないように。
このままの状態を保っていくには、そのプロセスが必要不可欠だった。
傷付いては直し、傷付いては直し。
その繰り返し。
生命の営みに近い気がする。生物体は、一日とて全身が昨日と同じ細胞では存在しない。
矛盾している。
自分も、彼も。
けれど、彼は今回でその鎖を断ち切ろうとしている。
自分はまだ、引き摺ったまま。
きっと、この小さな世界が崩れるその時まで、ずっとこの想いを引き摺っていくのだろう。
「…すまない、な」
2つの意味を込めて、もう一度謝罪の言葉を口にした。恐らく、彼は気が付かないだろう。
『何言っとんねん、お前が謝ることなんて無いやろ?あ、勿論これからもあの2人のことは任しときー。お陰で俺も吹っ切れたわ。覚悟せえよ、お前がそう決めとるんなら、もう徹底的に付き合ったるで。お前は命の恩人やさかい、俺に出来ることがあったら何でも言うてや』
彼は優しい。それは、過去に彼自身に起こったことからも容易に察し得る。
命の恩人なんて、今時誰が言うだろうか。
短く謝辞を述べると、彼はそれで一仕事終えたかのように、ほっとした顔を見せた。
ああ、これで終わってしまうのだと。
これからの全てを考えるその前に、深く息を吸い込んで、
静かに、目を閉じた。
『なあ、***。一つ訊きたいんやけど』
いきなり水を向けられて、持っていたコーヒーカップを取り落としそうになった。
『自分にとって大切な奴と同じ身体で、中身だけ違てる奴が居ったら…人間は、普通どう思うんや?』
咄嗟に答えが出なかった。
暫し思案した後に、これが一般論だろうか、と思われる感想を口にした。
「…憎む、だろうな」
彼には、これが意外であるように思えたらしい。
『嬉しくはないんか?死んだ人間が生き返ったみたいに喋って、笑うて、泣くんやで?』
「それでも、その者は“自身にとって大切だった者”とはなり得ない。別人だ」
そして恐らくは、自分の理想像とは異なることに絶望を抱く。そしてその時、それは憎しみの対象に変わる。
そういった例を、自分は知っていた。
『そういうもんか。そもそも憎むって、誰を憎むんや?』
「……その“身体”を持っている者…そして、それを“造った”者を」
偽りの人形として。
『…なら、お前にとって三月は憎うないんか』
こちらの様子を窺うように、彼は小さく問うた。好奇心とのジレンマがあったのだろう。
珍しいことだが、そんな彼の気遣いを目にするとこちらが笑えてしまう。
時によっては怒りを覚えたかもしれないその問いにも、今は不思議とその類の感情は湧かなかった。
「憎むべき対象が、愛していた者だ。…難しいな」
この返事に、彼はふむと頷いた。疲れたのか、窓の外を見やる仕草をする。
『…人間って、複雑やな』
* * *
誰か関西弁教えてくれ。