その人は、いつも同じ時間のバスの、同じ席に座っていた。


*     *     *


向かって左側の、後ろから3番目の窓際の椅子。そこが彼の指定席だった。
落ち着いた色のコートに、モノトーンのマフラー。一見するとわからないが、髪には控えめな茶色が混じっていた。
歳は20代前半、といった所だろうか。
全体が暗めの色で包まれているから、耳から垂れた真っ白なイヤホーンのコードはとりわけ鮮やかに映えて見えた。


本を読むわけでも、肩に掛けられた小さなバッグから携帯を取り出すわけでもなく。
その人はいつも、窓に頭を預けて目を閉じているか、薄く瞼を開けて外を眺めているだけだった。


とりたてて何と言うこともなく、彼が気になった。
毎日バスの中で彼の姿を見つけることが、ちょっとした楽しみになった。


私はいつも、その人のひとつ後ろの、反対側の席に座った。
毎回同じバスに乗っていると気が付いた時から、その人は何も変わらず、静かに彼の指定席に座っていた。
眠っているように見えることもあった。
けれど不思議なことに、私が降りるバス停の2つ手前で彼は必ず目を開け、降りていくのだ。


*     *     *


ある日のこと、駅で停車していたバスに、小さな女の子を連れた母親が乗ってきた。
女の子の小さな手には、ふわふわと浮かぶ赤い風船の紐がきゅっと握り締められていた。
2人は一番後ろの長椅子へ向かい、母親はきっと両替をするのだろう、待っててね、と言って運転席の方へ歩いていった。
やがて聞き慣れた硬貨の音がしたかと思った矢先、後ろで「あっ」という声がした。
何となく、予想はできた。


振り向いてみれば、一時の自由を得た赤い風船が、天井という壁に阻まれて再び囚われの身となっている。
紐が短い所為で、女の子の背丈では手をどんなに伸ばしてみても届きそうになかった。
向日葵のように可愛らしい女の子の顔が、俄かに曇る。


取ってあげようと私が立ち上がろうとしたその視線の先を、見慣れた色の影が遮った。


彼は楽々と女の子の手から逃げ出した風船の尻尾を捕まえて、彼女の目の前へと差し出した。
それから、気付いたようにバッグのアウトポケットから飴をひとつ取り出して、紐と一緒に女の子の小さな手に握らせた。


女の子の顔がぱっと明るくなると、彼も優しく微笑んだ。


とても温かな笑顔だった。
きっと、彼は子供好きなんだろうなと思った。




そういえば、今日はバレンタインデーだった。


*     *     *


その日は、生憎の雨模様。
外の景色は薄暗いベールにすっぽりと覆われ、バスが駅を出る頃には既に雨が降り始めていた。
その人は珍しく、うっすらと瞼を開けて外を眺めていた。


その横顔は、何時になく淋しそうだった。
彼はいつも何を考えているんだろう。どんな気持ちで遠くを眺めているんだろう。
彼がいつものバス停で降りようと立ち上がった時、一瞬どきりとした。
見間違えではないと思う。


俯き加減で何気なく目を擦った彼は―――きっと、泣いていたから。


重低音のノイズと軽い振動の直後、窓枠の中で急に遠くなっていく彼の後ろ姿が妙に目に焼き付いた。
心が空っぽになってしまったような、そんな気さえした。


*     *     *


あれからも、彼はずっと変わらず指定席に座り続け、私も変わらず同じバスに乗っていた。
でも、これも今日で最後。何故って、私はもうこのバスを使わなくなる。


発車時刻までを名残惜しげに思っていると、2人の親子連れが乗ってきた。
それはあの日、母親と一緒にバスに乗ってきた、赤い風船をお供に連れた小さな女の子の記憶が鮮やかなリアルになったような、不思議な感覚だった。


その子供は、深く青い風船を手に持っていた。
動物を模した可愛らしいフードを目深に被っているのでよく見えなかったが、多分女の子だろうと思う。
片方の手には風船と、もう片方の手には母親の確かな温もり。
見ているだけで幸せになれるような、そんな2人。


くるりと一通りバスの中を見渡してから、一番後ろの長椅子に向かおうとしたその足元に、音も無く何かが転がった。
毛糸で編み込まれた、見てそれとわかる手作りの小さなお人形。女の子のリュックサックに付いていたものだ。


案の定、彼はそれに気付いてゆっくりと立ち上がった。


彼が人形を拾い上げると、漸く気が付いたらしい女の子が彼の所へ駆け寄ってきた。
彼は軽く人形に付いた埃を掃ってから、女の子に差し出した。
女の子は「ありがとう」と言ってそれを受け取ると、にっこり笑ってもう片方の手に持っていた風船を差し出した。



『Happy WhiteDay!』



その青い風船には、真っ白な文字でそう書かれていた。


彼は小さく礼を言って風船を受け取ると、あの時と同じように、本当に優しく微笑んだ。
やや低めの、耳に残る素敵な声だった。