「正嘉の飢饉」と日蓮、親鸞の視点を考察
震災が起こったとき、鎌倉時代の宗教者たちはどのような対処をしたのだろうか。「正嘉の飢饉」を例に佐藤弘夫が注目すべき研究を行っている。『宗教研究』373号(日本宗教学会)2012年9月30日発行の特集「災禍と宗教」を抜粋する。
「この飢饉を同時代の出来事をして体験したのが日蓮と親鸞である。日蓮は文応元年(1260)7月、『立正安国論』を北条時頼に提出したが、その冒頭で正嘉の飢饉が引き起こした惨状を生々しい筆致で描写している」。「当時鎌倉にいた日蓮は、正嘉の飢饉の実態を目の当たりにしていた。日蓮はこの災禍の原因を、法然の専修念仏の流布を嫌って国土守護の善神が国を捨てたことであると断定した。その上で、善神を呼び戻し『安国』を実現するためには、念仏を禁止し『法華経』を宣揚することが不可欠であると主張するのである。」(p140)
「日蓮の『立正安国論』提出から4カ月後の11月13日、すでに京都に戻っていた親鸞は、かつて住んでいた常陸国の門弟たちに手紙を書き、次のように述べている。『なによりも、こぞ、ことし、老若男女、おほくのひとびとのしにあひて候らんこそあはれにさふらへ。ただし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ』。正嘉の飢饉に対する親鸞のコメントは、日蓮に比べるときわめて淡白である。」(p141)
「両者の対応の違いを、飢饉のまっただなかにいた日蓮と、そこから距離を置いていた親鸞とのギャップに求める向きもある。しかし、それ以上に大きな原因と考えられるのもは二人の世界観の相違である。日蓮にとって、現実を離れて浄土はありえなかった。たとえ地獄のような惨状を呈していても、この世界の本質は仏国土であり、それを顕現することは可能であるというのが、日蓮の一貫した信念だった。」(p141)
「他方、法然の弟子であった親鸞にとって、この世は所詮厭い去るべき穢土にすぎないというのが基本的な立場だった。」(p141~142)
「両者に共通する発想がある。それはどちらにもこの惨状を、宇宙の根源に実在する仏の救済実現のプロセスのなかで把握していることである」(p142)
日蓮と親鸞の違いは、所詮、釈尊の真意をどちらが明確に把握しているかではないか。それは釈尊の教えの「娑婆世界説法教化」を曇りなき眼で見て、実践する難しさでもある。