永遠の仏 | ノートさんのブログ

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鎌田茂雄(1994)『法華経を読む』(講談社学術文庫)


 如来寿量品――永遠の仏の生命――(p257

 「『法華経』の第十六品は『如来寿量品』といわれる。如来とは仏のことであるから、仏の寿命は無限であり、永遠の生命であることを説いたのがこん『如来寿量品』である。普通、仏である釈尊は、今から2500年ほど前にインドで生まれて仏教を説き、80歳で入滅された方であるといわれているが、釈尊がこの世に出現されたのは単なる偶然ではなくて、無限の過去の深い因縁によって、この世に現れたのであることを明らかにするのが、この如来寿量品である」(p257258

 「仏が成仏してからの時間は始めも終わりもない。長いとか短いとかいう、人間のはからいを超えている。それは時間を超えているということである。すなわち絶対時間にいます仏なのである。時間的にも空間的にも限定を下すことができないのが、仏の生命なのである。このように無限の過去から成仏している仏が、実はこの娑婆世界において説法教化している釈尊であるというのである。娑婆世界は、われわれ凡夫が住んでいるこの苦しみに満ちた小さな世界、現実の世界である。無限の空間、すなわち大宇宙から見れば、小さな太陽系のなかの、そのなかの一つの惑星にすぎない地球などは小さいものにすぎない。この小さな地球上の人間の住むこの娑婆世界において、仏はまず説法教化したのである」(p262

 「われわれが本仏の久遠の大生命に生かされていることをしっかりと自覚するとともに、仏はわれわれを無上道に入らせ、仏身を成就させようと考えてくださる。この『如来寿量品』で、はじめて永遠の生命である本仏の相(すがた)がはっきりとわかり、われわれはこの本仏の大生命の中に生かされていることを悟るとき、大いなる勇気が生じる。この自覚は頭で理解されるものではない。身体的な行によってこれが得られてくる。『南無妙法蓮華経』の題目を唱えるのもよいし、『南無観世音菩薩』でも『南無釈迦牟尼仏』でもよい。あるいは、宇宙の霊気と自己の気を一つに合わせる太極拳や合気道のようなものでもよい。何でもよいが自己の肉体と精神を朝鍛夕錬してゆくとき、必ず大いなる宇宙の大生命=仏の生命と合一することを知る。自分は自分を超えた大いなる存在に支えられていることを知る。自分の存在を大いなる生命の中に帰投することができるとき、人は宗教的安心を決定(けつじょう)することができる。そこから無限なる大いなる生命を感得することができ、深い心の中から無限の歓喜が沸き出てくることを知る」(p270


 鎌田は、本仏の生命に生かされていることを悟るには「『南無観世音菩薩』でも『南無釈迦牟尼仏』でもよい。あるいは、宇宙の霊気と自己の気を一つに合わせる太極拳や合気道のようなものでもよい」と主張する。しかし、何でもいいとなるとちょっと行き過ぎではないか。なぜか、日蓮は「仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経ににすぎたるはなし」(御書p1124)と明確に御書に残している。何でもありでは仏教ではない。