蓮長だけ「全然別の思想」 | ノートさんのブログ

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 内村鑑三は、日蓮が「全然別の思想」を打ち立てたと見抜いた。それは、鎌倉仏教のほとんどが中国からそのまま仏教を取り入れたのに対し、日本から新しい思想を打ち出したことを意味します。そこに気づいたクリスチャンもすごいと思う。


 内村鑑三は『代表的日本人』で「10年の長期にわたり蓮長は叡山にとどまって、むずかしい問題にとり組みました。私どもは、蓮長の達した結論しかいえません。蓮長は、今や、あらゆる他の経典にまさって法華経のすぐれていること、それが叡山の開祖最澄により、原形のまま日本にもたらされたこと、しかし、その後、叡山の僧侶により、価値を低くみられてきたこと、このことをはっきり確信するにいたりました」(157)。

 「今や年も三二歳、友もなく名もない存在でしたが、独立不羈の人でした。蓮長には、真宗の範宴にみられたような、主張するに足る祖先の血筋はありませんでした。『海辺のいやしい身分の子なり』と後年自分のことを呼んだように、一介の漁師のせがれでした。最澄、空海ら、すぐれた『学僧』たちのように、海外に行って学んだわけでもありません。外国留学は、今日の日本にあっても、かなり重視されています。洋行帰りは、知識の分野を問わず、秘密を解くカギの持ち主とみられているのであります。また、他宗の開祖たちが、たいてい有していたような、多くの後ろ盾も日蓮には皆無でした。皇室の庇護などは、むろんありません。蓮長は、独力でもってあらゆる権力と抗し、当時勢力を有した宗派とは全然別の思想をひっさげて立ったのでした。その後の日本に蓮長にならぶ僧侶は出ていません。一つの経典と法のために、自分の生命を賭して立ったのは蓮長だけであります。蓮長の一生に関心が寄せられるのは、その抱懐し弘めた教えのためでなく、そのことを可能にした勇敢なやり方のためであります。真の意味での日本での法難は、蓮長をもって始まったといえるのです」(157)と記述している。