善悪は衆縁和合による | ノートさんのブログ

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 私たちの心は善にも悪にも染められます。だから悪に染まらないように修行が必要です。


 田上太秀(2000)は『人間ブッダ』(第三文明社、レグルス文庫)で 「人の心の善悪は、種々の条件によって作り出されます。条件次第で人の心は善くもなったり悪くもなったりします。善い心も悪い心も、つまりは衆縁和合の産物です。心は住所不定の代物で、捉えどころがなく、風来坊で、さまざまな汚れ、煩悩を引き起こす者です。とはいえ、心といわれるものの正体がつかめないのですから、生来、善とも悪ともいえません。ただ、人が慈しみやあわれみの気持ちをもって人々に接して、人々のためになることをしているうちに自然に善い心が培われると教えています。だから善悪は衆縁和合にしたがって起こるといい、これが善い心、そして悪い心を作ります」(105)。

 「ブッダとはどんな悪いこともできなくなった人だとわかりました。なぜならそれが習慣として身についているからです」(107)

 「人は貴賎や貧富によって差別されるのではなく、人それぞれの行ないが善であるか悪であるかによって差別されるべきだと釈尊は教えています。なにを人々にしてあげたかによって人の価値が決まるようです。慈しみの心で善いことをしてあげることが善行であり、その善行の人が善人であり、高貴な人です」(109)。

 「慈悲とは慈しむこと、悲(あわ)れむことを一つにした合成語です。慈しむとは友となって協力する心を表わすことばです。悲れむとは苦痛に同情し、癒してやりたい心を表わすことばです。要するに慈と悲との合成語である慈悲は相手に勇気を与え、苦しみを取り除いてやりたいという気持ちを表わしたことばです。つまり苦しみを抜き、楽を与えることを仏教用語で抜苦痛与楽といいます。これは慈悲をわかりやすく言い表わしたことばです。キリスト教では神の愛はすべてに差別なく、だれでも与えられるといわれますが、その根底には神を信じる人だけにという制約があります。また、驚くべきことに神の愛は人以外の動物には及ぼされていません。これと比べて釈尊は、人だけでなくあらゆる生き物に対しても慈しみと悲れみの心を及ぼさなければならないと教えました」(113)。

 「仏教用語で無明ということばがあります。原語の意味は無知といいます。道理、つまり衆縁和合の道理を知らないことです。世間はみな衆縁和合して成立していることを知らないために、人はわがままな行動を起こし、人の気持ちを考えずにいいたい放題に発言し、むさぼったり、怒ったりして争い事を起こしています」(151)。

 「多くのブッダや菩薩たちは煩悩を断ち切らずに解脱したといっています。煩悩は我が身を破滅に導く強敵であるから、これを滅ぼし尽くすことはできません。しかしその煩悩を無力化することはできます。それは小さな善行を積み重ねることによってできます。煩悩を完全になくすのではなく、煩悩を支配し、煩悩を利用して、煩悩を足場にして悟りに向かうという発想は修行半ばで挫けそうになっていた人々に光をあたえたことでしょう。『法華経』には土を積み上げて仏塔を造ったり、仏像を彫り、花や線香などを備えたり、仏像の前で楽器で音楽を奏でたり、歌でブッダを賛美したり、仏画に一輪の花を供え、礼拝し、合掌したり、小さく頭を垂れたりしただけでも、みなこれらの行ないがブッダになる道になると教えています。さらにつづけて、もし散乱した心でも、仏塔や廟のなかで一遍でもいい、『ブッダに帰依します』と唱えれば、ブッダになる道を成就するとも説いています」(171)。