ブッダと釈迦と釈尊は違うのか。私には皆、同じ意味に理解できる。田上太秀〈2000〉の『人間ブッダ』(第三文明社、レグルス文庫)には、次のように出ている。
「ブッダ」という言葉は、ある特定個人の固有の呼び名ではなく、真理にめざめた人なら、だれでもブッダと呼ばれていたことがわかります。ところが仏教教団では釈迦の死後、弟子たちの間で釈迦だけをブッダと呼ぶようになり。ブッダといえば、釈迦と結びつけるようになりました。また、仏(ほとけ、あるいはぶつ)のことばも同じように釈迦を指す名前となりました。大事なことはほとけ、すなわち仏はけっして死んだ人を意味することばではなかったこと、そして死を意味することばでもなかったことを知っておくべきです。真理にめざめていない人は決して仏ではありません。死んだらすぐ仏になるという考え方は本当のブッダの教えを伝えたものではなく、ブッダの教えを冒涜する考え方です。(p14)
真理に目覚めた人とは、なかなか難しい。釈尊は出家して様々な難行苦行を続けた。自分の外から体がぼろぼろになるまで修行を積んでも真理に到達しなかった。ところが、ある日突然、真理を把握した。それが成道である。釈尊が悟った究極の真理が経典となり、中国、朝鮮そして日本へと伝わってきた。不思議な思想の旅である。