飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として588年に蘇我馬子により発願され、596年に創建された日本で最初の仏教寺院である。飛鳥寺には複数の呼称があり法号は「法興寺」または「元興寺」という。現在の飛鳥寺は蘇我馬子が建立した法興寺の中金堂の跡にあたる場所に建てられたもので「安居院(あんごいん)」という。また718年に平城京に移った寺は「元興寺」と称している。
7世紀にはいると百済、高句麗、ついで呉から多くの僧が渡来、相次いで飛鳥寺に入寺している。飛鳥白鳳期にあってはこの渡来僧が学問仏教の先駆をなし、三論・法相の教学の中心となっていった。 当時としては唯一の仏教教学の研究機関であり、やがて朝廷からの庇護も受けるようになったようだ。645年の乙巳の変ではこの寺が蘇我氏討伐の本陣となっており、すでに蘇我氏の氏寺という以上に朝廷との強いつながりを持っていたらしい。
文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて正式に朝廷の保護を受けるようになり、平城京遷都後も元興寺が南都七大寺の一として朝廷の保護を受け続けている。
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仏像は撮影禁止の寺院がほとんど少だが、ここはありがたいことに許可してもらえた。
飛鳥寺の本尊釈迦如来像である。飛鳥大仏の通称で知られる。605年推古天皇の誓願により造立が始まり609年に完成したと言われている。法隆寺の釈迦三尊像と同じ鞍作止利(くらつくりのとり)の作。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、アルカイックスマイルなどに仏像の特色があるとされている。銅造である。鞍作止利は祖父が南梁からの渡来人と言われる司馬達等(しばたつと)で、彼ら渡来人によって大陸伝来の卓越した鋳造技術を用いた造像とされている。
寺は887年と1196年、二度にわたる火災で焼失し、室町時代には廃寺同然、この釈迦如来像は雨ざらしだったという。当初あったとされる左右の脇侍像もいつのまにか失われ、本尊自身も大きな損傷があった。あちこち補修を受けながら、それでも生き延びた。飛鳥時代以来座り続けている現在の台座から動いたことはないことがわかっている。上の大仏殿の写真で見るように、建物の前に並ぶ石はかって法興寺と言われた時代の中金堂の礎石である。この仏様は自身を容れる建物が変わってもずっとここにいたのである。ずっとここにいて、時代の移りゆく様を見ていたのである。
奇跡としか言いようがない日本最古の仏像である。 合掌。
この仏様に見守られながら、ずっと一緒にここに佇んでいたのか、蘇我入鹿の首塚。向こうは甘樫丘。