食生活を変えて、身体が変わってきたなぁと思いますが、瞑想も、毎日はできてないけど、やっぱりいい気がするなぁと実感しています。
まだまだ日常の些細なことにも、特に、不快なことだったりすると、気分はぐらっと揺れてしまいますが、そうしないで自分の気持ちをただ眺めるようにしようとする試みの中で、心が揺れることの影には、執着が隠れていることが多いのかなぁと、気がつきはじめるのでした。
人の些細な言葉に傷ついたり腹がたったり→言われた内容に(知らぬうちにかもしれなくても)執着とか、違う、というこだわりがあるからこそ、揺れる。少なくとも、どうでもいいとは思っていない。
人の些細な行動にイライラする(私の場合は新たなルームメイトのマナー・習慣など)→今までの日常と違うのが嫌。同じ日常に執着して、臨機応変でいく柔軟性と、あとは変化に付き合う体力?もないのかも。あとは住んでいる家が好きなので、その空間を汚さないで欲しいと思うのは、家、という物に執着していることの顕れかも。
別に、執着を持つというのは、悪いことではないと思います。上記の家についても、その方が、ものはキレイに使われて、長く保存されるし、がさつなことが丁寧なことよりいいとは思いません。
また、私は、今こちらの大学で、ずっとやりたくて、でも日本では縁のでなかったことを学んでいるのですが、私は日本でそのことにたいして、ず~っとずーーーっと執着を持っていて、何度も、もう諦めなければいけない、あきらめて前向きに生きなくてはいけないと、執着を捨てようと、考え方を変えようとしてみたりいろいろするのですが、どうしても手放せなくて。。
手放したつもりでも、勝手に戻ってきちゃうんですね。
そうしてひょんなことから道が開けて今があります。
それまでの壮大な執着を育てなければ、言語や文化の壁を越えて、今ここにはいなかったかもしれません。もっと楽しい人生も、豊かで充実した人生の可能性もあったのかもしれませんが、私はこの散々遠回りな人生を、とても自分らしいとも思うし、基本大好きなんです。闇の中を歩き続けるような、自分なりに本当に辛いこともあったけれど、もし他の道を選べたとしても、やっぱり自分のこの人生を生きたんだろうなぁって思います。
それでも、やっぱり日々悩みというのは尽きないもので。
ツライ時には、疲れ果ててしまいますし。
そんな中、最近瞑想をすることを意識することで、心がけたほうが良さそうかな?と思ったことが、上記の、執着に気づくということ。
感情を眺めるというのは、瞑想の基本だと思うのですが。
眺めて、気づく。そしてジャッジはしないということ。
その気持ちや執着が、いいものとか、悪いものとか、判断しないで、自分てそういう気持ちを持っているんだなぁと思う。他者が関わることの場合は、私たちは、人を変えることはできないので、基本放っておいていいのかなぁと思います。もちろん自分が人のすることや言うことに対して、不満だったり、違うと思うと、伝えたいならどんどん伝えていいと思うし、伝えた方がいいこともたくさんあると思います。でも伝えることが義務とか、伝えないことが負けなわけでもないと思うので、伝えるのが精神的に大変だったりするのなら、無理にそれをしなくてもいい。勇気を出して言葉で言っても結局伝わらないこともありますしね。その結果にも、執着をしないというか。
私は、1人でいるときの方が、自分を肯定して、幸せな気分でいられることが多いように思います。アファーメーションとかイメトレとかをなんとなくしているのかもしれませんし、あとは人目を気にしないで、自由でいられるからでしょうか。人といるときは、人の気持ちに影響されやすいので、会っている人がハッピーだったらそれに影響され、アンハッピーだったらやっぱりそれに影響されてしまったり。よくあります。
なので、今後は人といても、自分がもし幸せなら、その感じを出せるというか、人といても、自分が自由でいられることが、目標なのかなと思います。
まだまだ日常の些細なことにも、特に、不快なことだったりすると、気分はぐらっと揺れてしまいますが、そうしないで自分の気持ちをただ眺めるようにしようとする試みの中で、心が揺れることの影には、執着が隠れていることが多いのかなぁと、気がつきはじめるのでした。
人の些細な言葉に傷ついたり腹がたったり→言われた内容に(知らぬうちにかもしれなくても)執着とか、違う、というこだわりがあるからこそ、揺れる。少なくとも、どうでもいいとは思っていない。
人の些細な行動にイライラする(私の場合は新たなルームメイトのマナー・習慣など)→今までの日常と違うのが嫌。同じ日常に執着して、臨機応変でいく柔軟性と、あとは変化に付き合う体力?もないのかも。あとは住んでいる家が好きなので、その空間を汚さないで欲しいと思うのは、家、という物に執着していることの顕れかも。
別に、執着を持つというのは、悪いことではないと思います。上記の家についても、その方が、ものはキレイに使われて、長く保存されるし、がさつなことが丁寧なことよりいいとは思いません。
また、私は、今こちらの大学で、ずっとやりたくて、でも日本では縁のでなかったことを学んでいるのですが、私は日本でそのことにたいして、ず~っとずーーーっと執着を持っていて、何度も、もう諦めなければいけない、あきらめて前向きに生きなくてはいけないと、執着を捨てようと、考え方を変えようとしてみたりいろいろするのですが、どうしても手放せなくて。。
手放したつもりでも、勝手に戻ってきちゃうんですね。
そうしてひょんなことから道が開けて今があります。
それまでの壮大な執着を育てなければ、言語や文化の壁を越えて、今ここにはいなかったかもしれません。もっと楽しい人生も、豊かで充実した人生の可能性もあったのかもしれませんが、私はこの散々遠回りな人生を、とても自分らしいとも思うし、基本大好きなんです。闇の中を歩き続けるような、自分なりに本当に辛いこともあったけれど、もし他の道を選べたとしても、やっぱり自分のこの人生を生きたんだろうなぁって思います。
それでも、やっぱり日々悩みというのは尽きないもので。
ツライ時には、疲れ果ててしまいますし。
そんな中、最近瞑想をすることを意識することで、心がけたほうが良さそうかな?と思ったことが、上記の、執着に気づくということ。
感情を眺めるというのは、瞑想の基本だと思うのですが。
眺めて、気づく。そしてジャッジはしないということ。
その気持ちや執着が、いいものとか、悪いものとか、判断しないで、自分てそういう気持ちを持っているんだなぁと思う。他者が関わることの場合は、私たちは、人を変えることはできないので、基本放っておいていいのかなぁと思います。もちろん自分が人のすることや言うことに対して、不満だったり、違うと思うと、伝えたいならどんどん伝えていいと思うし、伝えた方がいいこともたくさんあると思います。でも伝えることが義務とか、伝えないことが負けなわけでもないと思うので、伝えるのが精神的に大変だったりするのなら、無理にそれをしなくてもいい。勇気を出して言葉で言っても結局伝わらないこともありますしね。その結果にも、執着をしないというか。
私は、1人でいるときの方が、自分を肯定して、幸せな気分でいられることが多いように思います。アファーメーションとかイメトレとかをなんとなくしているのかもしれませんし、あとは人目を気にしないで、自由でいられるからでしょうか。人といるときは、人の気持ちに影響されやすいので、会っている人がハッピーだったらそれに影響され、アンハッピーだったらやっぱりそれに影響されてしまったり。よくあります。
なので、今後は人といても、自分がもし幸せなら、その感じを出せるというか、人といても、自分が自由でいられることが、目標なのかなと思います。