俺が淡墨桜を見に行きたいと思ったのは、さして風流な気持ちがあったからではなかった。

 ある時お線香を探していていろいろレビューなどを参考にしていると断トツで評価が高かったのが「淡墨の桜」という商品であった。正式名称は「宇野千代のお線香 淡墨の桜」というものだった。その時はお線香の枕詞であったためこの「宇野千代」があの宇野千代さんとは気が付かなかった。想像したのは「栗原はるみのフライパン」的なことだった。商品を購入してパッケージをみたら「岐阜県根尾村に爛漫と春を告げる樹齢1500年の桜があります。 その名は「淡墨の桜」(うすずみの桜)。 まるで山里に湧き出した春霞のように美しく咲き誇り、やがてゆっくりと淡い墨色に変わることから そう呼ばれたといわれています。」と書いてありその「やがてゆっくりと淡い墨色に変わる」に心が奪われてしまった。

それで心は実在するという「淡墨の桜」のままではあるけれど、とりあえずお線香を焚いてみると人気のわけがわかった。これがお線香かというくらい煙が少なく匂いも控えめであったのだ。

 さて、そこから「淡墨の桜」について調べてみると実在することは確かでライブカメラまであった。しかし今の時代はそうなのであろうがライブカメラは興ざめな気分にもさせられる。まあ、そもそもネットで調べることからして風情がないが仕方がない。検索結果の中にお線香ではない「宇野千代 薄墨の桜」があり、ここでようやくお線香の「宇野千代」とあの宇野千代さんが結びついた。そして小説「薄墨の桜」があることを知る。もちろんすぐに読んでみた。内容は実際の「淡墨の桜」の保護に尽力した作者自身を重ね合わせるような短編でフィクション部分がサスペンス的でもあり純粋に小説としてもよいできで読後はいっそう「淡墨の桜」への思いは募るばかりになった(今日の冒頭の文章はその小説から拝借したものです)。小説の中にこの桜の名の由来については「淡い墨色に変わる」からではなくその地に隠棲中の次期天皇がその地を去るときに残した歌の中に短い間この地に住んでいたと言う意味で「薄住みよ」という言葉が入っていたといことがそのことすら懐疑的であるとの文章と共に書かれていた。読み方は同じ「ウスズミ」だが実在のものは「淡墨」で小説のほうは「薄墨」になっているのはこのへんの経緯からかもしれない。

 そんなことをいろいろ思いつつもわざわざ岐阜に行くほどまでではないのもまた事実であった。そうこうしていると桜の季節が近づきネットの記事や広告も桜に関するものが増え神奈川の桜特集みたいなものがありその中に「淡墨桜」の文字を発見。その桜は個人宅に1本だけありその持ち主が地域振興のため一般に公開しているとのことだった。もちろん公開と同時に訪れたのが3月30日。この日はまだ3分程度だったので、4月7日に再訪してほぼ満開の淡墨桜をみることができた。平成元年に本家岐阜の1メートルほどの苗木を植えたその桜は巨木とは言えないまでも大きな木に育っていた。

 ところで「淡い墨色に変わる」が気になったので持ち主の方に聞いてみたところ「いや~、そーでもないよ、ほら、どんな花でも最後のほうは黒くなったりするだろ、そんな感じで人によってはそれを淡墨とかに感じるんじゃないかな、宇野千代さんとかの感性のある人はさー、そーなんじゃないの。俺なんかの感性ではとても(淡墨は)感じないよ」との清々しいまでの正直な回答であったが、俺の頭の中ではあの桜は何度も何度もゆっくりとゆっくりと淡い墨色に変わっていくのであった。

 

 

 

 

 

2024年3月30日

 

 

 

 

 

2024年4月7日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後になったけど場所と行き方は次の通りです。

個人宅なので公開期間以外はNGで今年の桜は4月9日の強風雨で散り始めたため14日まで公開終了より早く終了してしまうかものとのことです。

 

場 所:神奈川県秦野市蓑毛453
アクセス:(バス)小田急線秦野駅から蓑毛行又はヤビツ峠行、「蓑毛中」バス停下車 10m戻る(入口)
※県道70号の大鳥居の少し先に臨時駐車場があります。

 

 

 

 

しかし地域振興のためとはいえ一般に公開しかも夜はライトアップまでするのには感謝しかないです。

 

 

 

 

 

 

持ち主さんの玄関には本家岐阜の淡墨桜の写真や蘊蓄の展示が軽くされていたので借用して転載ウインク

 

 

 

 

継体天皇御手植桜

今から1,550余年の昔、17代履中天皇の第一皇子市邊押盤皇子が皇位継承をめぐって大泊瀬皇子に殺害された。

市邊押盤皇子の長男計(24代仁賢天皇)、二男弘計王(23代頭宗天皇)、三男橘王並びに母親のはえ姫等は、大泊瀬皇子の迫害から身を守るため、倭から丹波へ市川大臣等に護られて避難した。

しかし、更に追手急なるを知り、億計王と弘計王は、母公の実兄の田彦と共に尾張一宮へ落ち延びた。歳月が流れ、弘計王(史実では彦主人王)と豊媛(史実では振姫)も成長し、二人の間に男大迹王(26代継體天皇)が生まれた。

彦主人王は男大迹王を安全な所に隠して養育しようと思い、最近嬰児を亡くした草平夫婦と、同じく女児を出産したばかりの兼平夫婦に生後僅か50日の男大迹王を託し、人里離れた土地へ出発させた。二夫婦はそれぞれ嬰児を背負い、苦難の未美濃の山奥に辿り着いた。

その後は言語に絶する生活を強いられたが、王は立派に成長し、乳兄弟の目子姫と結婚された。

そして、勾大兄と桧隅高田皇子が誕生された。

その頃、男大迹王等は都からの招きで根尾谷を去ることになった。そこで王は、住民との別れを惜しみ、桧隅高田皇子の産殿を焼き払った跡に1本の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を遺された。

「身の代と遺す桜は薄住よ千代に其の名を栄盛へ止むる」

 

 

 

 

 

淡墨公園(岐阜県本巣市)の淡墨桜

淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市の淡墨公園にある掛齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である。

淡墨桜はのときは薄いピンク、満開に至っては白、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西 26.90m、南北20.20m。掛齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。

近年では幹の老化が著しく、幹内部にできた空洞も広がりつつあるが、木医や地元の人々の手厚い看護によって守られている。作家の野千代がその保護を訴えて、活動したこともよく知られる。

日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年(大正11年)10月12日には国の天然記念物に指定された。