
足を止め 見上げさせては 宇宙に花
死すべき人の 思い出を知る
思い出づくりというものが、若い頃よく分かりませんでした。思い出とは時間を愛しむ事です。過ぎた時間を貴重に思い、それを懐かしむ心性自体を貴重とすることです。
時間というものを貴重と感じることは、万人に共通するものではありません。そして一人の人間も、時間を感じることなく過ごす場合もあるのです。私がこの写真を撮ろうとしてiPhoneを翳した次の瞬間、
「あら、桜咲いてるじゃない」
と、お昼休憩に出てきたお役所の職員さんの声が聞こえました。普段誰も立ち止まらない路地に私が立って上を向いているのを、おやと思ったのでしょう。きっと多忙なのでしょうね。
若さが専ら懐疑に向かい、うずくまるばかりだった私。忙しくないはずの日々に、通りすがりの「花」を見ました。それは桜でなく、伝統芸能の演舞のようなものでした。学生たちが行き交う大学構内の広い道、風が通り抜ける大樹の下に太鼓の音を聞きました。
着物の裾やたすき、長い鉢巻を翻しながら舞い踊る彼らに足を止めたのです。一緒にいた友人たちも声をあげるような、時を止めるような姿でした。大行列でなく、5・6人の踊り手でした。それまで木陰に休んでいたものかわからないけれど、風の流れを見定めてふと舞い始めたような一瞬の出会いでした。
何故私はこれを見て悲しくなるのだろう。友人たちは喜び愉しげに声をあげ手を叩くのに。こんなに美しいのに。痛みとなって私の中に何度も思い出されるのです。
あの演舞を見た私は、あの木陰にはいなかった。あの場に満ちたよろこびのうたを感じられなかったから。美しいということだけは理解出来たからなお一層悲しかった。私はあの時「時間」を感じられなかった。「思い出」らしきものは通り過ぎていくだけで私の身に添ってこなかった。
愛しむべき「時間」を実感出来ないのに、どうやって過ぎた時間を懐かしむ心性を持つ事が出来るのでしょう。どうして皆は思い出を作ろうと言うのか不思議で、不思議がる自分が疎ましく、それを口に出さないままずっと生きて来たのです。
太古の昔から人間は時間を定め暦を作り、祭祀に祈り、舞いを踊っていたのでしょう。「時間」を知る人は思い出を知り、いのちを愛するのだと思います。誰でもいつか死ぬことを知るからです。
落ち込んでいるから気分が盛り上がらない場合もあります。若い頃の私は、落ち込んでいなくても元気な時でも、むしろ楽しい時こそ、あの美しい演舞を悲しむような自分に出会い続けて来たのです。
専門用語は知らないが、自分は異常とは言わぬまでも特殊な人間なのだろう、と考えていました。でも最近になると分かるのです。私ほどではなくても、心踊る瞬間だけではなくても誰でも生きているのです。私は確かに、踊る心を知らずに生きてきた場面が多かったけれど、全てそうだったわけではなかった。もしそうなら、あの演舞に悲しみすら感じないのだから。
…長い時間が過ぎたようです。出会いがあって、私一人の思惑や予測を突き飛ばすようなものを、たくさん通り抜けて来ました。今となっては燃え出すような時間に慣れてきたのです。あの演舞のような悲しみに再び出会ったら、恐ればかり募ってきて泣いてしまうのでした。
昔なら、よろこびを強く示さない私にも、別に友人たちは驚かなかった。その場にいるのだから感じている感情はほぼ同じものだと、疑う理由なんて持たないものです、若いときは。…今の私は泣いたり、澱む感情を突拍子もなくかき混ぜて、その飛沫に周囲を戸惑わせたりします。それでも、それすらも、昔に比べたら、心はさんざん揺らいで生きているのです。近所迷惑ですから、一歩一歩着実に直していこうと思いますが。
今足を止め見上げれば、宇宙(そら)に桜が咲いています。これが思い出なんだと。いつかこの身が消えても残る思い出は、今この瞬間なんだと。
思い出を知った、そんな春の、宇宙(そら)のうた。