
山口光市母子殺害事件は
当時未成年であった被告に死刑の判決となった。
死刑について考えてみた。
死刑は日本の刑法で定められた刑罰のうち
最も厳しい罰である。
その判断基準は昔から慣例により
殺人対象の人数とその残虐さによって
決められていた。
具体的に言うと殺人の被害者が一人なら
残虐であって情状酌量の余地が無くても
無期懲役になることが多く
複数人になると死刑が検討される。
※ここに事実と異なる表現がありましたので削除しました。
事件の残虐性・社会的影響がかなりあるものでも
たとえ殺意が明白であったとしても
結果的に被害者が死亡に至らなかった場合
死刑を選択される可能性は低くなる。
これは、事件が人間の命を奪ったかどうか
という事実が諸悪の判断基準となっていることを
示しており、
「命は命をもって償い給へ」
というハムラビ教典の教えそのものである。
ワタシは家族や最愛の人が人の手により殺められた
体験がないので、冷静にこんなことを文章にできるの
だと思うが、果たして死刑が最良の結果だろうか。
死刑により果たして今後の犯罪が無くなるのか。
妻に
「もし、僕やぼくたちの子供が誰かに
殺されたらキミならどうする?」
と訊ねたら間髪入れずに答えが返ってきた。
「ワタシがそいつを殺す。」
僕は
「そいつとは一生関わりたくないので一人で悲しみにふける」
であろう。
しかし、実際その場におかれたら違う感情になるかも知れない。
「命を持って命を償う。」
それで解決なのか?
もっと言えば
加害者が死ぬことで償えたことになるのか?
死刑の是非については
ワタシは肯定派である。
なぜなら死刑が現状で最厳罰であるから。
最厳罰の存在がないと法の執行は効果を持たない。
しかし、その最厳罰に至る審議のプロセスが
いささか安易だとは思う。
罪を憎んで人を憎まず。
誰が言ったんだっけ。
死亡した人の数や社会的感情で死刑を選択するのではなく
事件が起きた背景や状況はもっと精査されるべきである。
むしろ、精神の脆弱が原因で情状酌量になるという事例は
被害者の感情を無視したものになっていないか。
結果、死刑の判決事例が増えることも致し方が無いのかもしれない。
平成21年7月からは裁判員制度が始まる。
我々が裁判に参加し、量刑を判断する立場にあって
事件の重大性や背景の判断はほとんどマスコミから
受ける知識になるであろう。
社会的影響だけでなく、事件の重大性をも報道によって
国民の意識に植えつけしているようにさえ感じる。
マスコミに踊らされて、おもしろおかしく事件を決着する
そんな日本にならないことを祈るばかりである。