忍者ブーム | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

1963年から65年にかけて忍者ブームが巻き起こります。その前兆となったのが、貸本マンガ(マンガとは言わずに劇画といっていた)のエースとも云う白戸三平の『忍者武芸帳』です。第1巻が59年に貸本世界で出版。農民一揆を指導する忍者集団と大名との闘争を描いたもので、安保闘争の時期とダブったために青年層を中心に人気を呼びました。それまでの巻物を咥えて、ドロンと消える忍術使いと異なり、白戸が描く忍者はリアルで私たち少年も魅了。

2年後、白戸三平は少年向け月刊誌『少年』に『サスケ』を連載開始。二部構成になっており、第一部は61年7月号から65年2月号、第二部が65年5月号~66年3月号まで連載されました。

戦国時代の末期、徳川家康に反抗する一族の名は猿飛。木から木へ自由自在に猿のように飛び移る猿飛びの術を得意とする一族です。サスケの父親の名は大猿大助。一族には、他に石猿や赤猿などがいます。豊臣の残党狩りにあって、父とともに放浪の旅に出て、追ってくる服部半蔵や柳生忍軍と対決。旅先では悪事を働く侍や地方の城主たちとも戦います、白戸は、忍者たちが使う“微塵がくれ”“おぼろ影”“空蝉の術”“炎がくれ”といった忍法や、“風車手裏剣”“三日月剣”といった忍者武器を科学的な解説をして、いかにも本物という感じ。リアルな画法と相俟って、少年たちにも人気が高まります。

『サスケ』よりも少年たちの大人気となったのが、週刊『少年サンダー』にて61年から66年まで連載された横山光輝の『伊賀の影丸』です。江戸時代初期、服部半蔵の命を受けた影丸が幕府転覆を狙う忍者軍団と戦う物語です。『サスケ』と違って、影丸は体制側の人間で、仲間と一緒にチームプレーで敵と対決。仲間同士が強い信頼で結ばれており、仲間の危機には身体をはって助け合います。それは敵方にもいえることで、得意技を繰り出しての戦いはスポーツ感覚ね。洗練された画力による問題意識皆無の単純な技と技との戦いが少年たちに喜ばれたのです。白戸三平の『サスケ』と横山光輝の『伊賀の影丸』の関係は、少し前の手塚治虫の『鉄腕アトム』と横山光輝の『鉄人28号』の関係に似ており、異なるタイプの忍者像がそれぞれ人気を得たことによる相乗効果が出ました。

大人の世界では、『甲賀忍法帖』にはじまる山田風太郎の忍法小説がブームになり、63年から翌年にかけて“山田風太郎忍法全集”全15巻が刊行されました。奇想天外な山田忍法とは対照的にシリアスな忍者の世界を描いたのが、60年に発表された村山知義の『忍びの者』です。山本薩男監督により市川雷蔵主演で62年に映画化され大ヒット。63年の『続・忍びの者』も『新・忍びの者』もヒットし、同じ市川雷蔵主演の“眠狂四郎”シリーズと並ぶ大映のドル箱シリーズとなります。

忍者ブームは、マンガ、小説、映画と並行してテレビにも伝染。『隠密剣士』でブームは頂点となります。第1部は西部劇タッチでしたが、第2部の「忍法甲賀衆」で視聴率は大幅アップ。以後のシリーズは全て忍者との戦いとなります。霧の遁兵衛役の牧冬吉が考案したという“忍者走り”をマネしたものですよ。ブーム最盛期の64年10月4日には、霧の遁兵衛を主人公にした忍者解説ドラマ「忍者ものがたり」まで作られています。

「忍者ものがたり」についてはココヘ⇒隠密剣士(忍者ものがたり) | 懐古趣味親爺のブログ (ameblo.jp)

NET(現:テレビ朝日)系列で64年6月7日~65年8月31日に放送されたアニメ『少年忍者風のフジ丸』では、忍法講義コーナーがありました。それは、番組ラストの3分間にある「忍術千一夜」で、本間千代子が案内人となって、戸隠流忍法34代宗家・初見良昭氏に忍法の秘伝をアレコレ質問。なにしろホンモノの忍者が説明するのですから説得力があります。いろいろな忍者道具の使い方や、忍者の実際をフィルムで紹介。それを見て、いろいろ試みた少年が多かったんじゃないかな。

忍者ブームといっても、チャンバラゴッコのように集団で楽しむのでなく、少年たちは個人の密かな楽しみにしていたような気がします。駄菓子屋でゴム製の手裏剣を売っていましたが、それより空き缶のフタや五寸釘で手製の手裏剣を作って投げる方が歓びはひとしお。忍者になれる方法がいろいろな雑誌で特集され、濡れた手ぬぐいを壁にペタッと貼りつけて壁を乗り越えようとしたり、竹筒を口に咥えてプールで潜ったりしたものですよ。麻の種を植えて、毎日その上を飛び越えることや、蓑笠を胸に当てて、それが落ちないように走る訓練は、物がなかったのでしませんでしたけどね。できないことはわかっていても、当時のたいていの少年たちは忍者になりたいと思っていたので~す。