もうそろそろかなと思って、ミルクを軽く温めてプラスチックの容器に注いでいると玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは」
夕暮れの空のした、制服姿のままの中原はくすりと笑った。腕のなかに黒いネコを抱えている。出迎えたぼくは彼女の笑顔にいつもどきりとさせられる。
動揺している自分を知られたくなくて、さりげなく目をそらした。
「よかったら上がって。今日はシチューなんだ」
「どおりでいい匂いがすると思った」
そのとき、ネコが腕から飛び出して、我が家の廊下を一直線に走っていった。
「こら、ジジ!」
中原がいたずら好きな子供をしかる口調で叫んだ。
すると小さな黒猫は振り返って「にゃあ」と一声泣いて、半開きになったリビングの扉のむこうへと消えてしまった。
「ほんと、ごめんね」
すまなそうに謝る中原にぼくはとんでもないとばかりに首をふった。
中原の家から貰い受けたとはいえ、ジジはもう我が家の猫である。
迷惑をかけているのはぼくのほうなので謝られると逆に申し訳なかった。
「ジジ!」
奥の部屋の扉が乱暴に開いた。長い髪をなびかせながら妹の由麻が現れた。玄関にいる中原に気づいて、一瞬敵意に満ちた眼差しを向けると、ジジの後を追うようにリビングへと入っていった。
「ごめん」
今度は謝るのはぼくの番だった。
中原がわが家から逃亡したジジをわざわざ送り届けにきたのも、今回が初めてではなく、こうしたやりとりも何度繰り返されたかわからなくなりつつあった。
ジジはもともと自由な黒猫だったが、その逃亡の原因は妹の由麻にあった。ジジは由麻が自分とおそろいのリボンを無理に首に巻きつけようとしたり、添い寝させようと力ずくで押さえつけたりするたびに弾丸のように逃げ出して、元の飼い主の家に帰っているのだった。
駅をはさんで反対側にある中原の家まで、歩けば三十分近くかかるので、最初ジジに備わった犬なみの帰巣本能にはなかば感心すらしたものだった。
それもいまでは迷惑以外の何者でもないのだが、中原と話すきっかけをくれたことだけは素直に感謝していた。
はじめのころ、ジジを送り届けてくれる中原に、あまりに申し訳なくてお茶でもと誘った。
母親の趣味のおかげで、うちにはグラム数千円の紅茶が大量に用意されていた。
種類はよくわからなかったが、見よう見まねで用意してふるまうと中原は大げさに感激してみせた。
「なにこれ、すっごくおいしい」
あまりに喜んでくれるので、ぼくも調子にのってしまい、次のときにはクッキーを用意し、何回も続けるうちに、今では晩御飯をふるまうに至っていた。
できたてのビーフシチューを器によそうと、中原は「いただきます」と言うのと同時にぱくぱく食べ始めた。
おいしそうに食べるその姿を見ていると、料理したぼくまで幸せになれた。
中原の向かいに座って、ぼくも夕食を食べ始めた。
とろとろになるまで煮込んだ牛肉をほおばりながら、なにげない仕草でリビングの隅をちらりと見た。
用意しておいたミルクを、我が物顔で勢いよく飲むジジのうしろに由麻が座り込んでいた。熱帯魚の尾びれのように気まぐれにゆれるジジの尻尾をつかもうと格闘しては逃げられ、悔しそうに唇を尖らせていた。
「由麻ちゃんってすごく長くてきれいな髪よね」
中原が由麻の背中を見ながら感心したように言った。
「そうかな」
ぼくはあいまいに答えた。由麻の髪は腰まで届く長さがある。
見た目はふわふわしているのに触れると滑らかで、小学三年にしては子供っぽい由麻をさらに頼りなく見せた。
ケーキに乗った砂糖菓子の人形みたいだとよく思う。
中原は耳元で切りそろえた自分の髪をそっと指でなでた。
由麻とは反対に中原の硬質な髪は癖がなく、いつも真っ直ぐ整っている。
ぼくはそれを見るたびに、実直な中原らしいと好感を持った。
「部活やらないの?」
ぼくが尋ねると中原はちょっと困ったように笑った。
「そっか、吉岡くんはうちの家のこと知ってるんだよね」
「剣道、もったいないなって思って」
小学校が同じだったので、中原の家が剣道の道場であることをぼくは知っていた。
中原の祖父が週に2回小学校の体育館に教えにきていて、小学生のころ、たくさんの子供に混じって防具を身に着け竹刀を振り下ろす中原を何度も見かけたことがあった。
「わざわざ部活でやらなくても、家に帰ったら練習させられちゃうからね。中学に入学したときは知ってる先輩に誘われたけど、どうせなら違うことやりたいなって思ったんだ。でも、結局何がやりたいのかわからなくて、立派な帰宅部になっちゃったけどね」
それはぼくも同じだった。
帰宅部という点では。
ぼくの場合は、面倒な人間関係を作りたくないだけだった。
部活に入る気なんか最初からなかったし、やりたいことなどなにもない。
「ジジ!」
由麻が叫ぶのと同時に、ジジが弾むように駆けだして、食事中の中原の膝のうえに飛び乗った。
「にゃあ」と甘えるように一声泣くと、膝の上で幸せそうにまるくなった。
由麻は今にも泣きそうな顔で冷たいフローリングの床にじっと立っていた。飼い始めて二ヶ月以上たつのに、ジジにとって主はいまだに中原で、由麻とぼくのことは餌係とでも思っているのだろう。
中原はジジの頭や首を優しくなでたあと、由麻を手招きした。
だが、由麻は中原をひとにらみすると足早にリビングから出て行ってしまった。
「ごめん」
ぼくの謝罪はいまにも消え入りそうだった。
夜になり、街灯がぽつりぽつりとアスフアルトの道路に光の輪をおとしていた。
ぼくの家から中原の家までの途中に踏み切りがあり、そこまで中原を送ることも習慣となっていた。
ぼくが守らなくても剣道をやっている中原は十分強い。
しかし、ぼくも男として女の子を夜、一人で歩かせることはできない。
けれど、そうすると家は由麻一人だけになってしまう。
そういう事情もあって、わが家の屋根がかろうじて見える踏み切りの前まで送ることになったのだった。
歩きながら、中原はいつも楽しそうにネコの話をした。
「クロロとスノーはね、すっごくなかがいいの。クロロはジジそっくりの黒猫でスノーは雪みたいに真っ白な猫なの。おばあちゃんが昔使ってた編み物のかごにね、毛糸のかたまりみたいに二匹でまるまって眠るんだよ。今年生まれた4匹の兄弟のうち、ジジだけが黒猫だったんだけどね。でも尻尾の形は父親のスノーそっくりなんだ」
中原は猫の話題になるとかわいらしい笑顔を見せる。
学校ではあまり見せない優しい表情に、ぼくはどきどきしてしまう。
学校での中原は、クラスの中心的なグループにいるわけでもないのに、不思議な存在感があった。
幼いころから剣道を習っていたせいもあるのだろう。
真っ直ぐにのびた背筋やしなやかな肩、硬質な髪、大人びた迷いのない眼差しは同級生たちの誰とも違った。
六年生のとき、くだらないことがきっかけでクラスの女子が二つに分かれて争ったことがあった。
ただ一人、どっちの味方もしない中原を二つのグループは必死になって取り合った。
いつしか、争いに動じない中原を先に手に入れたほうが勝ち、のような空気が流れ始めていた。
「実季ちゃん、いったいどういうつもり?」
片方のグループのリーダー的な女子が、しびれをきらして中原に詰め寄った。
ぼくは窓際の席ではらはらしながら見ていたのを、今でも覚えている。
「わたし、そういうの興味ないから」
嫌味なふうでもなくさらりと答えた中原に、女子の全員が何も言わずに黙りこんだ。
次の日から、女子たちは何事もなかったかのように再び仲良くし始めた。それは中原の存在を強烈に感じさせた出来事だった。
それまでどこか近寄りがたい雰囲気のあった中原が、ネコの話題になるたびに見せる笑顔はぼくをたやすく有頂天にさせた。
我が家の悩みの種でしかないがジジがうちに来なければ、中原とこうして話すことなど永遠になかったはずだ。
でもぼくは中原に言わなければならないことがあった。
それが中原との付き合いに終止符を打つ言葉であったとしても。
遮断機が赤く点滅しはじめた。
甲高い音がして、轟音が近づいてくる。
電車が走りぬけると、風が巻き上がった。
ぼくは、意を決して、ここ数日言えなかったことをようやく中原に告げた。
「ジジを中原の家に帰そうと思うんだ」
中原はなにも言わなかった。
「由麻はあんなだし、これ以上はジジがかわいそうだ」
嘘だった。
むしろ、奔放に行動するジジがうとましいと思うことさえある。
それ以上に、ジジに固執して追い掛け回す由麻を見ているのが辛かった。
母親にあまりに似すぎていた。
「由麻ちゃんを最初に見たのはあそこだった」
中原は、線路の向こうに見える小さな公園を指差した。
「わたしは散歩に出たまま帰らないジジを探していて、そしたらあそこの公園で由麻ちゃんがジジと楽しそうに遊んでいたの。わたしがジジを連れて行こうとすると、泣きそうな顔になって、ついジジを飼うつもりがあるかって聞いたの。他の兄弟たちはみんなもらわれていったのに、ジジだけ残っちゃっていて、このままずっとうちで飼うつもりでいたの。でも由麻ちゃんを見たとき、この子にはジジが必要なのかもって思ったの。だから由麻ちゃんがいらないって言わない限り、ジジの飼い主でいてほしいんだ」
ぼくは胃の底に鉛を流し込まれたみたいな重みを感じた。
初めてジジを連れてきたときの由麻の晴れやかな笑顔を思い出して、息が苦しくなった。
それは母親がぼくらを捨てて出て行った次の日のことだった。