昨年の震災で被災した仙台の叔母が行っている活動を紹介します。
以下は、河北新聞の2011年12月24日の夕刊に掲載された記事の抜粋です。
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風船のように木に引っ掛かり生還 復興ふうせん考案 荒浜
「復興ふうせん」を折る幸子さん(右)と、名付け親の大学さん=仙台市若林区
東日本大震災の津波にのまれながら生き延びた仙台市内の夫婦の体験を伝えようと、友人が「復興ふうせん」と名付けた折り紙の風船でつくる飾りを考案した。
手を離れた風船が木に引っ掛かったようにして助かった夫婦の生還劇。その由来を飾りと共に広めようと考えている。
復興ふうせんを考案したのは仙台市若林区荒浜地区の主婦大学たか子さん(65)。友人で近くに住む最知洋一さん(70)、幸子さん(67)夫妻の津波体験を聞いたのがきっかけだった。
両面に色が付いた折り紙を何枚も組み合わせて作る大小の風船と折り鶴をひもでつなぎ、「ありがとう」といった言葉を添える。
鮮やかな色使いは、「虹のように元気に生きていこう」との思いを込めている。
最知さん夫妻は3月11日、自宅から車で避難する途中で津波に巻き込まれた。
車ごと流された2人は垣根にぶつかり、偶然開いた助手席の窓から脱出。
木によじ登り、翌日ヘリコプターで救助されるまで歌を歌い、寒さと恐怖に耐えた。
「2人だったから頑張れた」と幸子さんは振り返る。
8月、入院中の幸子さんを見舞った大学さんが、リハビリのために幸子さんが作っていた折り紙の風船を見て、復興ふうせんと名付けることを思い付いた。
風船のように流され、木に引っ掛かって生きながらえた最知さん夫妻の津波体験を重ね合わせてのことだ。
大学さんは、荒浜地区住民が多く暮らす仮設住宅で高齢者に幸子さんと一緒に折ってもらったり、支援者へのお礼に渡したりできないかと考えている。
「津波を思い出すと今でも眠れない。多くの友人も失った。でも、みんなの分も生きなきゃ」と前を向く幸子さん。
そんな友人を支えたいと願う大学さんは「夫妻の過酷な津波体験とともに、元気に生きている証しとして復興ふうせんを多くの人に伝えたい」と話す。
2011年12月24日土曜日
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現在も活動を続けている叔母ですが、復興風船の材料となる両面の色紙がなかなか手に入らない状況とのことです。
震災からもうすぐ1年が経過しようとしていますが、被災地の方々は精神的にまだ辛い状況に置かれているようです。
月日が経過してもこの日のことを忘れてはいけない。
叔母の活動は私達がこの震災を忘れないでいるためのものです。
色紙の提供というかたちで叔母の活動を支援してくださる方、連絡いただけると幸いです。
以下は、河北新聞の2011年12月24日の夕刊に掲載された記事の抜粋です。
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風船のように木に引っ掛かり生還 復興ふうせん考案 荒浜
「復興ふうせん」を折る幸子さん(右)と、名付け親の大学さん=仙台市若林区
東日本大震災の津波にのまれながら生き延びた仙台市内の夫婦の体験を伝えようと、友人が「復興ふうせん」と名付けた折り紙の風船でつくる飾りを考案した。
手を離れた風船が木に引っ掛かったようにして助かった夫婦の生還劇。その由来を飾りと共に広めようと考えている。
復興ふうせんを考案したのは仙台市若林区荒浜地区の主婦大学たか子さん(65)。友人で近くに住む最知洋一さん(70)、幸子さん(67)夫妻の津波体験を聞いたのがきっかけだった。
両面に色が付いた折り紙を何枚も組み合わせて作る大小の風船と折り鶴をひもでつなぎ、「ありがとう」といった言葉を添える。
鮮やかな色使いは、「虹のように元気に生きていこう」との思いを込めている。
最知さん夫妻は3月11日、自宅から車で避難する途中で津波に巻き込まれた。
車ごと流された2人は垣根にぶつかり、偶然開いた助手席の窓から脱出。
木によじ登り、翌日ヘリコプターで救助されるまで歌を歌い、寒さと恐怖に耐えた。
「2人だったから頑張れた」と幸子さんは振り返る。
8月、入院中の幸子さんを見舞った大学さんが、リハビリのために幸子さんが作っていた折り紙の風船を見て、復興ふうせんと名付けることを思い付いた。
風船のように流され、木に引っ掛かって生きながらえた最知さん夫妻の津波体験を重ね合わせてのことだ。
大学さんは、荒浜地区住民が多く暮らす仮設住宅で高齢者に幸子さんと一緒に折ってもらったり、支援者へのお礼に渡したりできないかと考えている。
「津波を思い出すと今でも眠れない。多くの友人も失った。でも、みんなの分も生きなきゃ」と前を向く幸子さん。
そんな友人を支えたいと願う大学さんは「夫妻の過酷な津波体験とともに、元気に生きている証しとして復興ふうせんを多くの人に伝えたい」と話す。
2011年12月24日土曜日
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現在も活動を続けている叔母ですが、復興風船の材料となる両面の色紙がなかなか手に入らない状況とのことです。
震災からもうすぐ1年が経過しようとしていますが、被災地の方々は精神的にまだ辛い状況に置かれているようです。
月日が経過してもこの日のことを忘れてはいけない。
叔母の活動は私達がこの震災を忘れないでいるためのものです。
色紙の提供というかたちで叔母の活動を支援してくださる方、連絡いただけると幸いです。