韓国元大統領 朴正煕氏


軍事独裁体制を築いた大統領で親日と言われる。

独裁的な手腕を振るったものの、いたって質素・潔癖であり、発展途上国の私腹を肥やす独裁者とは

一線を画すところ。

同じ独裁者として、金日成とはライバル関係にあったが、北と南の経済発展、

その後の国力の差を見ても、朴正煕の功績は明らかといえるのではなかろうか。

また、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をもたらした為、韓国近代化の礎を築いたと言われ

一部韓国人は「韓国のおとうさん」とも呼ぶが、韓国より日本での評価が高いのは面白い。


そんな氏の経歴は、wikipediaによると

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95


朴正煕は日本統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ 現在の亀尾氏)で、

貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。

父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓守をしていた。

家は貧しかったが亀尾小学校を優等で卒業。大邸師範学校を卒業し教師をした後、

日本国籍のまま満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。

優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。

その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。

1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦後は満州国軍中尉だった。

とあるが、下4行は常々歪曲されているとの指摘があり、今回

財団法人 偕行社さんの御協力を得たのでまとめてみる。


1. 「朴正煕」氏が名乗っていた日本名について
    
朴正煕」氏が名乗っていた日本名について、陸軍士官学校第57期生の記憶によれば
高木 正雄」であった。

2. 陸軍士官学校第57期生として卒業したのか?(朴正煕氏の軍歴) 
                                    以下、(N):ネット情報

  昭和12年7(1937) 大邱師範学校卒業 小学校教師となる……(N)

      師範学校の成績についてはネット資料では首席から合否すれすれまで各説がある。
      教師としての任地は慶尚北道聞慶国民学校?であったと言われる……(N)

           この時期に「国民学校」?小学校か?
          軍官学校の受験地牡丹江との関係は・・?

以下特記以外は同期生誌「朔風万里」及防研資料「陸軍の教育」による

    朴正熙氏は満州において「軍官学校」を受験、受験地・牡丹江、
     満系生徒として入校
     合格者 340名(採用考試及格者公告)朴正煕氏は序列15番

     当時軍官学校には満系生徒日系生徒があり、
満系生徒は満洲地区で試験を行なったが、
     日系の軍官学校入校者は陸軍予科士官学校受験合格者の中から
軍当局により「軍官学校要員」と指定された。

昭和16年(1941)4月3日 満洲国軍軍官学校へ入校 軍官学校2期生

軍官学校においては日系生徒と満系生徒は別個に教育された。
当時の教育は2年の予科課程教育、次いで約5ケ月の隊附教育
日系生徒は陸軍士官学校で本科教育、教育終了後満州国陸軍少尉に任官、
同時に日本の陸軍少尉に任官し予備役編入
満系生徒は引続き軍官学校で本科の教育を実施し、
見習士官の隊附勤務を経て満洲国軍陸軍少尉に任官
このスケジュールは士官学校教育の短縮等の影響を受け変動があった)

昭和17年(1942)3月23日 満州国軍官学校予科卒業式
満州国軍官学校の卒業成績序列を記録した史料は見出されていない。
(1942.3.23付満州日報によると首席との記事はある模様)

昭和17年(1942)3月24日 予科補備教育開始
  昭和17年(1942)4月6日 兵種示達
  昭和17年(1942)7月4日 補備教育終了
 

軍官候補生を命ぜらる、7.3隊附部隊に出発
日系歩兵生徒の隊附は満洲第318部隊(遼陽50i/29D)、
満州第574部隊(遼陽・38i/29D)
満洲第177部隊(哈爾賓・30i/28D)で行なわれた。
満系については史料なし。

昭和17年(1942)9月 新京出発 20日小田原到着 陸軍伍長に進む
昭和17年(1942)10月1日  陸軍士官学校入校(第57期と一緒)

満州国生徒隊 158名
基本的には日系生徒が入校することになっていたが
満系生徒の成績優秀者28名(内朝鮮系3名、他は満・蒙系)が入校した
教育は「留学生生徒隊」で行なわれた。
陸士に進んだ朝鮮系の人員は3名であったことから
朴正煕は朝鮮系の生徒の3番以内であったことは推察できる。
留学生隊は満州国生徒隊(4コ区隊)と中華民国生徒隊(1コ区隊)を基本としていた。
朴正煕は留学生隊第1中隊第5区隊に編入されている。

昭和19年(1944)4月20日  陸軍士官学校第57期生卒業式、天皇陛下御臨幸

     この式典で57期生の地上兵種15名に恩賜賞が下賜されているが
    
留学生隊(軍官候補生)の優秀者には
陸軍大臣賞満州国皇帝賜品が授与された。
    
(おまけ)陸士第57期、朝鮮出身者は金鎬梁、鄭祥秀、崔泳秀の3名が卒業

     陸軍大臣賞授与者   満洲国軍軍官候補生 神戸 肇
                    同             小笠原 春次
                    同       野田 弘

      満州国皇帝賜品拝受者 満洲国軍軍官候補生 神戸 肇
                      同       小笠原 春次
                      同       野田 弘
                      同       徐 殿郷

                     (中華民国留学生は記載しない)

     軍学校教育の結果として成績序列名簿は当然作製されたものと思われるが
資料は見出されていない。
留学生は陸士終了であり、「教育終了」につき
原所属(軍官学校)に復帰と言うことであった。

士官学校歴史では第11期満州国生徒 神戸 肇外149名
「卒業に付陸軍曹長の階級を与え見習軍官を命じ離校を命ず」と記述はされている。

教育期間は士官学校第57期と同じであったが、同期生と言うより
同期相当(海軍で云うコレス)であったと考えられる。
従って陸士第57期の卒業成績序列に組み入れられることはない。
陸士第57期の卒業序列3番と言うのはあり得ない

  昭和19年(1944)5月1日    満系生徒本科卒業、見習士官として隊附勤務
  
    日系見習士官の隊附教育は歩兵については、
    満洲第712部隊(虎林・43i/11D)で行なわれた。

   昭和19年(1944)6月末     隊附勤務終了、軍官学校に集合
昭和19年(1944)7月1日    満洲国陸軍少尉に任官

地上兵科の者は軍官学校で約1週間補備教育の後任地へ出発
軍官学校第2期生の配属、部隊勤務の状況については不明。

   昭和20年(1945)8月1日   中尉に進級

朴正煕は歩兵第8団に所属し団長副官であったとネット資料にある。……(N)
その資料が正確か否かは判定できないが、
当初(時期は不明)歩兵第8団は第6軍管区(牡丹江)に所属。
歩兵第8団はその後(時期は不明)第5軍管区(承徳)の隷下となり
「興隆」……承徳南方……に駐屯して昭和20年8月の終戦を迎える。

3.参考資料.

  満洲国軍官学校二期生の記録「朔風万里」 同徳第二期生会編 56.5.1刊

  朔風万里は日系生徒を基本として記述されており、
満系生徒についてはこの資料から類推したものがある。

  陸軍の教育 補充学校篇 防衛研究所資料
  陸軍士官学校歴史 陸軍士官学校編 靖国偕行文庫蔵
  満洲国軍  蘭星会編   昭和45年刊
  韓国を震撼させた十一日間 JICC出版局刊……(N)
  朴正煕 韓国近代革命家の実像 亜紀書房刊……(N)
  朴正煕の時代 韓国 上からの革命の八十年 悠思社……(N)

4.まとめ
  高木正雄・・・OK(創氏改名時期は不明)
  満洲国軍軍官学校首席・・・微妙、ゆえに×
  成績優秀者・・・まぁOK
  陸士を3位の成績で卒業・・・×(卒業というより、教育終了、序列3位はありえない)
  終戦時満州国軍中尉・・・OK

  日本の教育を受け、その功績を認める氏においても
  韓国国内では、成績優秀という見栄は必要なようで。
    留学生隊も同時に「教育終了し、式典に参加。