強制労働、史実を後世に 「神戸港平和の碑」除幕


第二次世界大戦中、中国人や朝鮮人、連合国軍捕虜が神戸港で強制労働させられた史実を伝える「神戸港 平和の碑」が完成し、神戸市中央区海岸通三のKCCビル前で二十一日、除幕式があった。(安福直剛)


 「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」(代表・安井三吉神戸大名誉教授)が建立。同会は一九九九年以降、聞き取りや文献調査を進め、歴史を後世に残すための出版物刊行とともに、碑の建立に向けて寄付集めや場所確保など奔走してきた。

 碑は縦百二十五センチ、横百二十センチで花こう岩製。「過酷な労働を強いられ、その過程で多くの人々が犠牲になりました。この歴史を心に刻み、アジアの平和と共生を誓う」などの文章が、日本語や英語、中国語、朝鮮語の四カ国語で刻まれている。

 父とおじが神戸港で荷役業務などをした張福来さん(50)は中国・河南省から、除幕式のために来日。「碑を建立してくれた皆さまに心から敬意を表したい。歴史に目を背けることなく、日本と中国が手を携えて未来に向かいたい」と話していた。

http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/0001254429.shtml

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KCCビルは神戸中華総商会のことで、この華僑は親中の広東幇という

反日傾向が強い団体によって形成されている。

と、まずは加筆。

神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」は以下のテーマで活動。


アジア・太平洋戦争の時期に神戸港では強制連行された朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜が強制労働を強いられた。連合国軍捕虜が強制連行されたという表現には若干の違和感があるが、日本軍が占領した地域で捕虜となって連行されたのであるから、考えればまさに強制連行であろう。


全体的に違和感。


神戸港の強制連行問題に関連する新聞記事として、神戸新聞から情報収集。

以下、主な記事(一部抜粋)

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1942年1月24日

芝生で日向ぼっこ/ほっと一息

抑留米人神戸の第一日

二十三日朝神戸に送られてきたグアム島の米人抑留者百三十二名は神戸到着と同時に

一班五十六名は神戸区北野町一丁目のバターフヰールド・エンド・スワイア汽船会社の寄宿舎へ、

他の一班七十六名は旧居留地伊藤町のシーメンス・インスティチウトへそれぞれ収容され、

この日から寛大な皇国の庇護のもとにおかれることになった

1942 年10 月13 日

英俘虜一行、神戸の収容所へ

陸軍輸送船リスボン丸で内地護送中鬼畜の如き米潜水艦の襲撃を受け全員溺死の憂目から

皇軍の恩讐を越えた救護で九死に一生を得た英俘虜一行は十一日神戸に到着、

俘虜収容所に入った、十二時五十分神戸駅に降り立った俘虜○○名は粛然と東遊園地へ。

東遊園地では森本安浩中尉の前に整列、閲兵を受け ? 子はこれより俘虜収容所に入る、

? 子の????は認め逃亡の意なく規律に従ふものは同情をもって?子の軍人たる

名誉を尊重して公正に取扱ふものである”と??両全の訓示に深く頭を下げて一小隊毎に

“日本軍の軍律に従ひ逃亡せず”の宣誓に右手を挙げて誓ふ、

次で所持品検査を受けかくて市民の注視を浴びながらロンドンの英俘虜は粛々と収容所に入った。

1944 年5 月20 日

半島労務者を指導
激励慰問に近く「委員会」設立

生産に、貯蓄に、また国防土木作業にとあらゆる戦力増強部門に皇国臣民として燃ゆる愛国心から

輝かしい足跡をのこしてゐる半島労務者の契約延長に対する異数の優遇の画期的措置が

講ぜらるることとなったが、相当数の本年満期の半島労務者を持つ兵庫県では、

協和会勤労報告隊等農村の土地改良にも素晴らしい稼働率を示したこれら半島出身の

産業戦士指導に万全を期して、一層戦意を昂揚せしむるため厚生省健民局の指導により

彼等を心から慰問激励する強力な機関として成田知事を会長に「移入半島人労務者指導委員会」を

結成することとなり、伊藤内政部長、菱川厚生、武末特高、渡辺労政、栗栖国民動員各課長に

大阪鉱山監督局、協和会、鉄鉱、鉱山その他関係統制会、工場事業場代表を委員として

来る三十一日午前九時から県会議事堂で「設立準備協議会」を開催する。

同委員会は半島同胞に対する深い理解と援護心から内地の慣れない寮生活に不自由を忍んで、

ひらすら生産第一線に挺身してゐる労務者の慰安激励主眼とし適切な生活指導、教育訓練、

職域指導、給与賞与、宿舎設備などに細心の注意を払ってゆかうといふので、
労務者本人への物心両面の待遇に並行してその家族に対しても慰問品の発送、

郷土演劇団の派遣など積極的に援護の手をさし伸べることになってゐる。


1944 年5 月23日
寮長は快男児の中尉
半島の若き訓練工【大手寮訪問記】


押迫った年の暮れに大手寮の窓硝子は時ならぬ歓声によってピリピリと震えた、

十八歳から二十八歳までの半島若者七十五名の顔はみな明るい歓喜の色が□つた。

職場での熱心さには頭が下がります、殊に指導員や先輩工員への信頼から湧き上がる忠実さや、

服従心の旺盛なことは予期以上のものです。

寮には看護婦さんもゐるのだが、公傷病は病人の監視に一苦労だという、

それは公傷で生爪を剥がした患者や、三十八、九度の発熱患者が、少しでも油断してゐると

こっそり抜け出して工場へ行ってしまふからである。

聖戦完遂に増産が何如に大きな役割を持ってゐるかを、徹底的に認識してゐるのだ

毎晩十一時半には寮の各部屋を廻ってみるのですがこれがまた私の嬉しい仕事の一つです、

毛布の何も蹴飛ばして、健康な寝息を立ててゐる無邪気な訓練工たちの姿に、

一日の労苦を感謝しながら、一人々々に毛布を着せかけてやるのですが、何ともいえない気持です‥‥」

1944 年5 月24

何かしら熱いもの
半島の若き訓練工「大手寮訪問記」

娯楽会は多士済々、まづ日蓄当選歌手といふ経歴をもつ綾城幸作君、朝鮮民謡コンクールに

一等当選したといふ金沢潤錫君、ギターの名手里見君などが演技を御披露に及ぶ、

最近工場の労務課長からハーモニカを寄付されたので、訓練工たちは大喜び、

日々点呼までの賑やかさ、それから野菜も作ってゐる。

見ると寮の東手の十坪ばかりの畑に葱やしゃもじ菜が行儀よく並んでゐる。

1944 年6 月13 日
半島訓練工の神宮参拝神戸製鋼で

神戸製鋼では本月第一回目の電休日を利用して同工場で敢闘してゐる半島訓練工一同を

同訓練隊長引率のもとに午前五時から起床して一泊二日の予定で伊勢の神宮参拝に行ったが、

これを訓練工達喜ぶことか喜ぶまいことか、しかも初めて拝す神宮の社殿前から

動こうとしなかった位だとは右隊長の言葉である。

1944 年6 月13 日

半島移入労力の検討(上)風俗習慣への理解/来てよかったと思はせて欲しい/本社共催の懇談会

大東亜民族十億を数へるとはいへ、それら東亜の解放への主体力となり、内地に来て

内地人と協力してゆけるのは、その生活、風俗、習慣、国語を解する半島出身者以外に
求められない


1945 年1 月12 日

生産へこの特攻魂/半島同胞/いまぢや職場の大黒柱/粘りと純情で明朗敢闘ご奉公/

配置の競願/川崎重工業


共に米英を撃たう、航空兵として、また設備隊員として前線に奮戦している半島同胞は兵庫県下の

軍需工場に在っても半島生産特攻隊員となって生産増強に涙ぐましく敢闘を続けてゐる、

温情の寮長に続きまた親子、兄弟が生産現場に挺身し、さらに職場においては

一日も早く重要作業に配置して下さい」と嘆願するなど生産戦場に内地と同胞と一体となり

?しい増産意欲を盛りあげ、特有のねばり強さを通し素晴らしい能率をあげ工場の人々を

いたく感激させてゐるが、いま半島生産隊の力強い姿にふれて見よう。

既に彼らの先輩多数が一年有余の前からこの工場に在って日毎に示してきた逞しい生産能力が

内地工員たちを優に凌駕してその刺激にもなっていることから今度の増員に際しても

特に採用された訳でもある。
二十名余りは内地言葉に不自由であるが、大体に教育程度も上に在るものばかりで

光山虎雄君は日大専門部出身平安北道所の??だった、金原龍裕君は法政大専門部出身でもある、

会社に着いて訓練工の宿舎と定められている芦屋市打出寮に落着いて二三日もすると

〝一日も早く現場に就かせて下さい〟と嘆願して班長たちに強い感銘を与えた。

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戦争下の新聞記事だけに、御用新聞な部分は認めるにしても


単純な「朝鮮人」が懸命に日本人として働いていたのは良くわかるものの


これら記事が所謂「強制連行・強制労働」を強いられたとは読めない。


少なくとも、1944年9月以前は自分の意思で日本に来た「半島日本人」


徴用開始の1944年9月以降の記事にしたところで、喜んで日本に来た「半島日本人」に過ぎない。

(徴用終了は1945年3月)


例え、業務が過酷であろうが、対価として給与を得ているのだから、ただの「お仕事」です。


ちなみに、戦時徴用は245人だったと朝日と在日の調査により1959年に発表済み。


民潭ですらこの手の主張、「強制連行」は取り下げ気味なのに、

神戸大学やすもんの三吉は何さらしとんねん!てなところ。



いずれにせよ、中国人は出てこないわけだが・・・w


商売人の華僑が神戸で「お仕事」をしていた事実なら認めますがw


大阪民国にもこの手の碑はもちろんございますデス。