サミットでロシアと北方領土について2国間協議もなされる  はず  なので

今日はソ連軍の北海道占領を阻止した樋口 季一郎氏のお話。

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1936年8月、陸軍少将樋口は、満州ハルピンに赴任。

着任早々、下記の通り青年将校に命じる。

「ここは満州国。満州人の苦情を良く聞いて相談に乗ること。反して悪徳日本人は摘発する事」

青年将校は、命に従い悪徳日本人を取り締まった。

ある時、ハルピンユダヤ人協会のカウマン博士が樋口を訪ね、ドイツのユダヤ人迫害に対して

極東ユダヤ人大会を開き、ナチスドイツの非道を世界に訴えたいと陳情。

樋口は快諾し、協力する旨約束する。

1937年1月、ハルピン商工クラブのホールに2000人のユダヤ人が集まり、カウマン博士はもとより

各地域のユダヤ人代表が演説。

そして、最後に樋口が次のように訴えた。

「ユダヤの国の人びとよ! 諸君らは世界のいずれの国においても祖国の土を持つことが出来ない。まことにお気の毒である。ユダヤ人は、科学・芸術・産業の各分野において、他のいかなる民族よりも、すぐれた才能と天分をもっているのである。歴史がそれを証明しているにもかかわらず、20世紀の今日ユダヤ人に対する迫害、追放が行われていることは、人道主義の名において、また人類の一員として誠に悲しむべきことである。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!ユダヤ人に祖国を与えよ!」  

樋口の演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、

樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。

大会終了後、イギリス系の記者から、日独伊三国同盟に影響を及ぼす内容だ。

その波及する結果を承知して発言したのかとのかと問われた樋口は

日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。


今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。

しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。


と答えた。

それから2ヵ月後の3月、ソ連領オトポールにユダヤ難民2万人が吹雪の為立ち往生し、

飢えと寒さで凍死者が続出しているとの一報が入る。

さらに、前述カウマン博士より

「ゼネラル! お聞きでしょう------オトポールの一件を------私には同胞たちの絶望的な様子が、目に見えるようにわかるのです。2万人ものわれわれの仲間が-------。でも、私にはどうすることもできない。私はそういう無力な自分がかなしい。腹立たしいのです」

事態は差し迫っていました。

樋口は東條総参謀長の許可を仰がず、独断で大連の満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、

列車差し回しの交渉を始めました。

それから2日後の3月12日の夕刻、第一陣の救援列車が到着しました。

凍死者十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、

炊き出しを受けました。

救援列車がもう一日遅れたら、これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちが言いました。

 
オトポールの事件が解決して2週間後に、ドイツ政府からの強硬な抗議が入ります。

新京の関東軍司令部から呼び出された樋口は、東條総参謀長に対して言いました。


日本はドイツの属国ではない、満州国も日本の属国ではないと、私は信じています。日本も満州もドイツの非人道的国策に屈すべきではないと思います。東條参謀長! あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーのお先棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」

東條は言いました、

「樋口君、よくわかった。私からも中央に対し、この問題は不問に付すよう伝えておきましょう」

このようにして、東条はヒトラーからの抗議をはねつけたということです。

奇跡の北方作戦


終戦の日の3日後、千島列島に、ソ連軍が攻撃をはじめたのです。

武器引渡しは、両軍協議の上、紳士的に行われるはずでした。

米、英軍とはこの原則が守られましたが、ソ連軍はこれを踏みにじり、

占守(シュムシュ)島に対し奇襲攻撃をかけてきました。

これに対し樋口司令官は

断乎、武器を執り、反撃に転ぜよ。ただし、戦闘終了の期限は予定通り午後4時とする」と命令しました。

日本軍は敵を水際で撃滅する作戦をとり総兵力32000、火砲200門、戦車85輌で集中的に反撃した結果、

午後4時までの十数時間で、日本軍の損害は、死傷600、砲6門、戦車20輌を破壊されただけなのに対し、

ソ連軍の損害は、死傷4500、艦艇撃沈破14 舟艇破壊20、水没した火砲50数門と甚大でした。

ソ連政府機関紙イズベスチヤは社説でこう述べています、「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりも、はるかに損害は甚大であった。8月19日は、ソ連人民にとって悲しみの日であり、喪の日である」。モスクワ市民は、この日、弔旗を掲げて、喪に服したといいます。


この戦果は、占守(シュムシュ)島での勝利にとどまらず、「日本軍強し!」の印象がソ連軍の北海道北半分占領の野望を完全に打ち砕き、北海道は守られたのです。

しかしその後ソ連極東軍は、アメリカ軍の占領下にある札幌の樋口を、

「戦争犯罪人」としてソ連軍に引渡すようマッカーサーに要求して来ました。

しかし、マッカーサーは、これを拒否し、逆に樋口擁護を通告したのです。

それは、マッカーサー総司令部の背後には、アメリカ国防総省があり、その国防総省を動かしたのが、ニューヨークに総本部を置く「世界ユダヤ協会」です。

アメリカの政財界においては、ユダヤ系アメリカ人が牛耳っており、このユダヤ協会の幹部の中に、オトポール事件のさい、樋口に助けられた難民の幾人かがおり、

「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない。

われわれはいまこそ、勇気をもって立ち上がるべきである」  

世界各地に散らばっているユダヤ人に檄が飛び、樋口救出運動がはじまりました。

こうしたユダヤ人の義理固さと誠実が樋口を守ったのです。

 
やがて、 1947年にイスラエル共和国が誕生しました。

そして、ユダヤ民族の幸福に力をかしてくれた人びとを永久に記念するために、

エルサレムの丘の上に「ゴールデンブック」が建てられました。

高さ3メートル、厚さ1メートル、本を広げて立てたかたちの黄金の碑です。

そこに「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれているそうです。

また、樋口の部下であった安江仙江大佐の名も刻まれているそうです。

そして、日本イスラエル協会から「名誉評議員」の称号が贈られました。

樋口はそれを聞くと、「そんな話は、わたしにはどうでもよい」と言いました。

それから10日の後、樋口季一郎は夫人に看取られて、安らかにこの世を去 りました。

http://www.christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2008/2008_06/2008_06_report.html

全方位土下座外交とは一線を隔すこの史実。

いわゆるA級戦犯とされた東條、松岡と関係するがため、あまり知られていないのが残念。


チベット問題を口に出来ない政府、北朝鮮に阿る政治家・・・

北方領土や尖閣、竹島の領有権を主張出来ない総理大臣・・・


日本が目標とすべき外交姿勢は、戦前日本の偉人の中にいくらでもヒントがある。

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