嘘
また予定を変更してお届けする。
メディアから発せられる情報の中に、物事の本質は一切含まれていない。メディアを疑えということはほんの少し考える力を持ってる人間の誰もが語り、書に記してまで伝えてきた、いわば先人の正しい知恵と言っても過言ではない。
この世のメディアから発せられる情報の1割でも事実があれば多すぎるくらいである。これは経験論からであり、実質論からである。
メディアの正しい情報とは、時報や、誰かが死んだという話、それとテレビに出ている全ての人間が実際にこの世に存在しているという様な、容易に私たちが確認できる話だけだろう。あとの自分で研究してない限り知りえない科学的な情報は全て嘘だ。
私たちがエコや、地球や政治やロボットや天体などについて、たくさんの伝えられるべきことを伝えられていない情報がある。病気なんかも其の一つだ。
私も、数々の信じられないような大企業の犯罪ともとれるような情報を懐に抱えている。もちろんマスコミにリークなどしないし、企業を相手にゆすってお金をせしめるようなまねもしない。聞くだけではあまりにも突拍子もない話なので、証明するには時間がかかるというのも理由のひとつだが。しかし本腰をあげればそれは容易いことだ。
閑話休題。
たくさんの人間が右へならえをすることで、たくさんのお金が動く。人は何か意思をもって行動をするとき、社会と個人との間で様々なものを磨耗する。お金や時間、もっと言うなら、自由を。※自由の定義はあえて省略する。あなたの思う自由でいいだろう。
そしてその自由を消費する時、同時にいわゆる財産を消費する。当たり前の話だが、もう一度反芻した上で次に進んでほしい。
今日とあるメディアで大胆な本質的話をしていたことからあえて抜粋するが、エコやメタボ、という言葉はいきなりこの時代に登場した言葉だ。メディアが発したから国民全員が注目し、やれエコだ、やれ禁煙だやれ節制だ健康だと言い出したのだ。
結果何が起こったか。
そう、先ほど述べたとおり、自由を消費し、同時に沢山のお金が動いたのだ。影で私たちを操作してお金をせしめようとしている人間がいるということだ。
其の事実は確認をとるまでもなく確信的事実だ。当然だろう、お金が動いたのだから。
政治がややこしく見えてしまい、首相の失言一つで首相を揶揄するという行為もそうだ。メディアが悪く語るから悪く見える。しかし私たちだって、ああ言わなければよかった、しなければよかったと思うような行動をとることなど生活の中でいくらでもあるだろう。
首相だけでなく政治家は毎日テレビで発言し、それが一つ仕事として盛り込まれている。毎日同じ仕事をしている人に向かって「カメラの前では責任ある発言を…」というのは当然なようで、ただの無責任だ。完全にヒトゴトだと考えている発言だ。よく自分と首相を置き換えて考えてみてほしい。
長文かつややこしい話をして申し訳ないが、結局一部の人間がお金を儲けるがために沢山の人間が躍らせている。その事実だけはなんとなく見えてきただろうか。
でもその一部の人間が悪いわけではない。善悪で問うなら、メディアを信じた私たちがいけない。そして最たる悪は嘘をついてはいけないと言った人間がいけないのだ。
嘘なくしてわれわれは生きてはいけないからだ。
人を傷つける嘘はよくない、傷つけない嘘なら仕方ないというのも大間違いだ。善も悪も嘘には存在しないから。
嘘とは人類に与えられた最強の武器であり、知恵なのだ。戦争で命が懸かっている折に、剣を抜いてはいけないというばか者はいないだろう。
上記の証明としてさらに話そう。
嘘をつくのが上手い人は仕事ができる人だ。仕事ができる人間をよく観察してみるといい。あるいはあなたが既に社会的評価を得ている人間なら、自分は嘘が上手いと感じているはずだ。その感じたと言う事こそが真実なのだ。
メディアが嘘をついてるかどうかは、自分の嘘が上達することで見抜けるようになる。情報雑誌を開いても、ラジオを聴いても、テレビをつけても、情報を仕入れた段階で全てを見抜く事ができるようになる。
ただ、言いえて妙だが、情報の真理を全て見抜けると世界がむなしいものになる事は先に知っておいた方がいいだろう。ただ、騙されていることに気づかなければ、沢山の自由を無駄に消費する人生になるのかもしれないが、それはそれで幸せな事なのかも知れない。
全ては私の妄想であり虚言であるとあなたは真っ先に考えたかもしれない。
しかし、あなただけが知る、あなただけの誰にも言えない本当の秘密というものがあるということが、この文章を真実の話と証明できる手がかりだ。
嘘という話で終わらないので申し訳ないが、締めくくろう。
「悟る」という事、それは悲しい事なのだ。何より悲しいことなのだ。結局、開放されるには、生きる事から脱線してしまうしかないと知るということなのだ。それでも私は生きているが、それにはきちんと理由がある。
「人類は何の為に生きているのか知らないで生きている」というのは嘘だ。科学はもう知ってしまった。
それが答えと言う事にしておこう。
幸せの考察
人とは不公平だ。能力や外見、人間関係など、先天的に決まってしまっている部分が多々あるからだ。
それをはつまり個性なんて言葉で片付けることもできるが、こと幸せに関しては例外だ。
一見すると、人が感じる幸せというものは個人差があるように思う。私よりあの人の方が幸せだ。そう感じる人はたくさんいるだろう。しかし、個人の幸せの度合いを決定するもの、それはずばり不幸の絶対値だ。どれだけ深い不幸を知っているかにより、その人の幸せの深さも決まる。
今あなたが不幸せを感じているなら、そのまた反対の幸せというものを見つけるのはたやすいだろう。
要するに、ほんの少しの不幸せしか知らない人は、自分にとって何が幸せなのかわからないまま、ただ漠然と時間を過ごし人生を磨耗していくだけだ。だが、それはそれで人生だ。
逆に地面を舐めて這うように生きてきた人間にとっては、些細な事で幸せを感じる事ができる。多くの幸せと触れる事ができるので、幸福な気分を長期的に味わえるが、やはりそれ相応の対価を払っているので、前者と何一つ変わらない。
あくまで絶対値的、数値的な話に思えるかもしれないが、同じ事だ。忙しいか、忙しくないか、其の程度の差だ。
結局、不公平な部類にあたる人間などいないのだ。それこそが真理。たとえ大病を抱えて生まれてきてもそうだ。
ただ、少数派であるから目立つだけの話。世間で話すには御幣を招く表現かもしれないが、先述のとおりだ。
当然今ある私たちの生活水準から比較して、不幸せな環境で暮らしている人たちなど地球上のどこそこにいくらでもいるが、そしてそれは先天的なもので本人の好きでそうしてるわけではない人が大多数だが、よその家族でも友人でもない、全く関係のない人たちが同情するなどいい迷惑なのではないのだろうか。少なくとも私なら馬鹿にしないでもらいたいし、いらぬお世話である。
閑話になるが、生活支援でお金を恵んでくれるだなんて、国民を馬鹿にしているにも程がある。
多少横道にそれたが、あなたも、あなたの周りの人も不幸せな人などいないのだ。
法律から導かれた道徳観に邪魔をされず、きちんと幸せと自分の今までの人生についてのバランス関係を見抜けるようになることこそが、個人個人の人生において何より大事なことなのだ。
見つけてない方は見つけて並べてみてください。自分の不幸と、幸を。曇りなき眼で見定めればどちらにも偏らないはずです。
今回は緊急での更新となったのですが、次回は前回の予告どおり、絵を描くということ、すなわち「表現」についてお話させて頂きたいと思います。
無駄についての考察
私は無宗教です。ですが、もしかしたら仏教的でキリスト教的な考えを語ることになるかもしれません。しかしこの散文はあくまで私の主観での言葉になりますのであしからず。
働いて得た対価をあなたは如何ほど有効利用しているでしょうか。衣食住以外に投じるお金、つまるところ、生命を維持し、また、次の世代の生命を育む事以外に投じるお金は全て無駄と断言できるでしょう。
ですが、私たちの心はその無駄な投資にこそ支えられているというのが現状であり、世界のどの歴史を見ても、それだけは普遍の真理であると言えます。
誰もが湯水の如くあふれ出るようなお財力を欲しているでしょう。それは、つまるところ、豪邸に住みたいとか、ブランドモノがほしいとか、最新のパソコンや車や時計がほしいという、とても生活するうえで必需品には遠いものを手に入れる為に、です。
誰かが「人生などただの暇つぶし」とおっしゃったらしいのですが、まさに正しい考えで、人類が、何故生命が誕生し、また次の世代に命を繋げてていくのか、その根源を突き止めない限り、この無駄の輪廻転生は繰り返されるわけなのです。
お金でお話しましたが、これは時間でも同じこと。
私たちは24時間では一日が短いなどとよく考えますね。もっと寝たい、仕事して稼ぎたい、本を読みたい、カラオケに行きたい、お酒が飲みたい。たとえればキリがないのですが、実のところ、それは生命維持に関係のない無駄な何かをする為の時間が足りないと考えているだけなのです。
私も含めてそうなのでしょうけど、一日をどれだけ有意義に過ごしているのでしょうか。全く無駄のないよう一日一日を尊く思い生活しているでしょうか。
生命に目に見えて限りのあるような、特殊な環境におかれていない限りそういった感覚で毎日を過ごしてる方はきっと皆無に等しいでしょう。人は無駄にすごせる時間がほしいのです。私も時間に関しては例に漏れません。
逆説的になりますが、無駄があるからこそ人は生命を維持しているのです。また、無駄を手にしたいからこそ他者から奪ったり、そこから付随する目もあてられない事件が多数報道されているということなのでしょう。
散々な口ぶりの私でしたが、実は無駄を愛してやまない一人です。
ただ、無駄に有り余るお金を得るということは、生活することすら苦しい人々を増やすだけなので、ほしいとは思いませんけど。
それにしても私はこんな当たり前の事をあえて書きたかったのだろうか、疑問だ。なんとなく手が進む方向に任せてしまったのだが。次回は絵を描くということについて、少し浪漫なお話ができたらと思う。まあ誰が読むこともあるまいて、次回も好きに書かせて頂きます。
