広瀬武夫海軍中佐(1868~1904)は大分県竹田市の出身。
ロシアに留学後、日露戦争で中国・遼東半島の旅順港口に船を沈め、ロシア艦隊を港内に封じ込める作戦を指揮した。
姿が見えなくなった部下の杉野孫七兵曹長を助けようと船内を捜索後、脱出用ボートの上で砲弾を受けて戦死。
唱歌「広瀬中佐」がある。


宮崎県に住むある家族が四代、一世紀に以上に渡り、命日(3月27日)に桜の枝を送り続けている。
竹田市のまちづくり団体は、郷土の先人に寄せられた長年の敬慕の情に応えようと23日、この家族を招いて、広瀬中佐の墓所周辺にヤマザクラ50本を植樹する。
「西日本新聞」

宮崎県油津町(現日南市)で文具店を営んでいた柴田庄太郎さんは1904年、部下の捜索中に戦死した広瀬中佐の悲報を新聞で知り、哀悼の気持ちを込めて、満開だった桜の木をすぐに東京にあった広瀬中佐の自宅に届けたという。これが、始まりとなった。
その後も毎年、命日に桜を送り続けた。
その頃は宮崎から東京まで小包便で10日ほど要した。
枝が枯れないように、大根に刺してボール紙で巻き、油紙でくるんで保水する工夫をしていた。
32年に庄太郎さんが亡くなると娘のしなさん、しなさんが亡くなった62年以降は、その三男雅夫さん(82)が担い手に。
第二次世界大戦が起き、戦中、戦後は献花の中断を余儀なくされたが、雅夫さんが送り先を広瀬中佐を祭る竹田市の広瀬神社に変え、引き継いだ。
雅夫さんは「国のため、部下のために命をささげた人を悼む、それがじいさんの気持ちだったと思います。誰に頼まれたわけでもなく、私も3月になると自然と桜を送るようになりました」と話す。
2004年に開かれた百年忌祭には、長男雅弘(53)さんを連れて駆け付けた。
竹田市のNPO法人「里山保全竹活用百人会」(井上隆理事長)は、柴田家の桜の話を知り、広瀬中佐の墓所から望む里山の整備を計画。「広瀬武夫桜の杜」と名付け、23日にヤマザクラ50本を植樹するという。
病気療養中の雅夫さんに代わり四代目として植樹祭に出席する雅弘さんは「父から引き継いでほしいと言われた。今後も続けていくつもりです」。
井上理事長は「広瀬の命日はくしくも桜の日。桜が取り持つ不思議な縁を大切にし、ヤマザクラの大樹を後世に残したい」と話している。

(12月19日付西日本新聞より)