霊は荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・奇魂(くしみたま)・幸魂(さちみたま)の四魂が完備して一霊となる。この四魂は霊の体である。荒魂は神勇といい、精神的に勇ましいということである。和魂は神親といい、奇魂は神智といい、幸魂は神愛という。四魂の勇・親・愛・智は不易の道である。いわゆる直日(なおひ)という霊魂は己の心でこれを主宰するものである。霊魂即ち一霊四魂とは体的に現わしたことである。宇宙大精神の分派であるからこれを一霊という。

 四魂の用即ち働きを敢えて述べるならば、智は感であり、悟であり、覚であり、察である。これらの働きをする魂を智の用という。愛は造であり、生であり、化であり、育である。これが魂の愛の用である。親は修であり、斎であり、治であり、平である。これが魂の親の用である。勇は奮であり、勉であり、克であり、進である。これが魂の勇の用である。即ち働きである。名・位・寿・富の四慾を四魂に配するならば、名は智に配し、位は勇に配し、寿は愛に配し、富は親に配せられる。四魂は縦横に働く。勇と親とを経(縦)として、智と愛とを緯(横)とするのである。

 霊に対しては別に自他の弁えがある。己の霊をもって己の霊に対し、あるいは一霊四魂をもって己に対し、あるいは己の一霊四魂をもってある一人の霊に対し、あるいは己の一霊四魂をもって国の霊に対し、また萬の人の霊に対し、あるいは己の霊をもって億兆無数の霊に対し、また世界の霊に対する。その体をもって体に対し、力をもって力に対する。これも精神的より精神的に修めるならば、己の精神の中に宇宙大精神の本尊を祀って、即ち宇宙本体の大精神を心得、体的四魂を超越してはじめて、われらの霊・力・体の三元の源が明らかとなる。

 四魂を明章にして精神的が明らかとなるのである。

 四魂は体的であり、一霊は精神的である。四魂を一霊として真釣(まつ)るため精神的の教には子がある。精神界には后妃がなくても、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)の御教を教えるならば、大国主の御末の御子というのは精神的の働きの分離をいう。精神的は人の小精神また知識で決定することはできない。霊には善悪はない、また陰陽もない。宇宙自然の大精神を説くので、大精神の教を基準として、己の心が法則に働くときは四魂に分かれて相応に働く。

 人は身に徳を積むというが、徳が宇宙の御力である。大精神を修得して自然の神の徳を備える。名・位・寿・富は神が与えるもので、人の力で収得するものではない。自然の神の御力を理解すれば自然に徳を授けられる。

 これは神賦即ち神が天賦的に与え給うもので、学びの知識ではこれを覚ることはできない。好き勝手に名誉とか、色々なものを求めるときは体的であって、神の御意思には通じない。神を除いて道徳世界に働くときは、知識であるから神外(しんがい)に働くというのである。