「歴史というものは虹のようなものである。それは近くに寄って、詳しく見れば見えるというものではない。近くに寄れば、その正体は水玉にすぎない」とは、オーウェン・バーフィールドという言語学者の言葉である。

 誰もが虹を見たことがあり、それが存在するという事実を知らない人はいない。しかし、その正体を調べようとすれば、分からなくなってしまうのが虹なのである。遠くからは見えても、近づいて検証しようとすれば、そこには単なる水玉しか存在しない。

 ニュートン「光学」は光を客観的物理現象としてのみ分析したのに対して、文豪ゲーテ「色彩論」は、「色彩は、その色を見る人間があってはじめて成立する」という視点を導入し、天然色を扱う現代の光学の基礎を作った。

 つまり、虹は見る人から一定の距離と角度を置いたときにはじめて、明瞭に見える。逆に言えば、その距離と角度が適当でなければ虹は見えない。同じ時間に空を見ていながら虹を見なかったという人は、いた場所が悪かったか、虹に近すぎていたからであろう。

 

 この虹を歴史に置き換えてみると、水玉は個々の歴史資料や歴史的事実といったものだろう。しかし、こういった歴史的事実のみを集めてみても、その観察者の立っている場所が悪ければ歴史の実像はまったく見えてこないのである。

 見る側の人間がいなければ、虹と同じく「歴史」は存在しない。客観的なものは個々の「史実」だけであり、それはあくまでも虹における水滴のようなものなのである。


 先の大戦に関しては、その虹の水滴一つ一つを数えられるほどに、私たちは情報を持っている。参戦国の政策決定に関する内部文書、当時の政権担当者たちの日記、新聞や雑誌の記事、さらには戦争で死んでいった兵士たちの遺書までが出版され、誰もが簡単に手に入れることができる。

 しかし、この問題は「水玉」を一所懸命見つめていたところで、答えが出てくるというものではない。少なくとも明治維新前後から現代に至るまでの日本史と世界史とを見通さなければ、答えは見出せないと思えるからである。

 いくら歴史的事実を山のように積んでみても、全体像としての歴史「虹」は見えてこない。やはり、距離と角度が必要なのだ。

 

 


参考「渡部昇一の日本史快読!」渡部昇一より