ロビン・ヨーント(Robin R. Yount、1955年9月16日 - )は、1970年 - 1990年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手。遊撃手、のち外野手(左翼手、中堅手)として活躍した。ニックネームは"Rockin' Robin"(ロッキン・ロビン)。

プロ生活をミルウォーキー・ブルワーズで過ごした球団史上最高のフランチャイズ・プレイヤー。1980年代に大リーグ最多の1731本安打を記録している。通算の試合数、打数、得点、安打数、二塁打、三塁打、本塁打、打点、塁打、四球、三振のブルワーズの球団記録は、2008年現在全てヨーントが保持している。

1973年ドラフト会議でミルウォーキー・ブルワーズから1巡目に指名され入団。契約後、A-級のニューヨーク・ペンリーグで打率.285・3本塁打・25打点を記録。「メジャーに行っても守りはいいが、打つ方は駄目」と評価されたが、翌1974年4月5日には18歳の若さでメジャーデビューを果たす。打率は.250でメジャー1年目を終え、「守備は一級品だが、バットは?」という評価は変わらなかった。20歳の誕生日を目前とした1975年9月14日には、メル・オットが47年間持っていた10代での最多出場記録241を更新した。

1978年オフ、引退しプロゴルファーに転向することを決意し球団と対立、物議を醸したが[5][3]、翌年の春のキャンプには復帰。以後もブルワーズ一筋にプレイし、1980年代メジャー最多の1731安打を記録。オールスターにも1980年、1982年、1983年の3回出場。1982年にはゴールドグラブ賞に選ばれた。

ウエイトトレーニングによりパワーが付き、1980年にリーグ最多の49二塁打を記録。1982年には自己最高の打率.331、29本塁打、114打点を挙げ、46二塁打はリーグ最多。ア・リーグMVPの投票で1位票28票中27票を獲得し、選出された。ボルチモア・オリオールズと同率首位で迎え、直接対決となったシーズン最終戦の10月3日には2本塁打を放ち、オリオールズを破り、プレーオフ進出。

カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズで3勝2敗で球団史上初のワールドシリーズに出場。ヨーントは初戦でシリーズ史上初となる1試合5安打を記録し、第5戦でも4安打を記録したが、カージナルスに3勝4敗で敗れた。カージナルスのホワイティ・ハーゾグからは「現在の大リーグで3本の指に入る選手」と絶賛。

肩を手術したため1985年から外野手へ転向。1987年4月11日、ホワン・ニエベスが球団史上初のノーヒットノーランを達成したが、9回2死でヨーントがエディ・マレーの右中間へのライナー性の当たりをダイビングキャッチして、快挙達成に貢献。

1988年6月12日のシカゴ・ホワイトソックス戦でサイクル安打を記録。1989年7月2日に史上5番目の若さで通算2,500本安打を達成し、同年、外野手としてMVPを獲得。異なるポジションでMVP受賞はハンク・グリーンバーグ、スタン・ミュージアルに次いで史上3人目。シーズン終了後の11月13日に初のフリーエージェントを宣言し、カリフォルニア・エンゼルス入団が確実となったが、ファンから残留要望の手紙が殺到し、翻意して残留。

1992年9月9日には通算3,000本安打を達成。36歳11か月24日での記録達成はタイ・カッブ、ハンク・アーロンに次いで史上3番目の若さ。1994年2月11日に現役引退を表明した。現役時代の背番号『19』は、1994年5月29日にブルワーズの永久欠番になった。

1999年には資格初年度でノーラン・ライアン、ジョージ・ブレットとともにアメリカ野球殿堂入り。2002年から2004年までアリゾナ・ダイヤモンドバックスでベースコーチ及びベンチコーチを務め、2005年と2006年には古巣ブルワーズでコーチを務めた。

・獲得タイトル・記録
アメリカンリーグMVP 2回:1982年、1989年
オールスターゲーム出場 3回:1980年、1982年、1983年
ゴールドグラブ賞 1回:1982年(遊撃手)
シルバースラッガー賞 3回:1980年、1982年(以上遊撃手)、1989年(外野手)
MLBオールセンチュリー・チームにノミネート:1999年