琵琶湖旅行を計画したのは、3月くらいのことだったと思います。


GWは前半に白川郷に行くので、後半は横浜の義実家にでも行こうかと思っていたのですが、ふと琵琶湖の竹生島が浮かび。



いよいよ長年の憧れを果たすのか…と。



ちょうど節目の誕生日でもある。

竹生島に行くことは、半世紀生きた自分にとっての、最高のお祝いではないかと。



琵琶湖は過去世から、いろんな時代、いろんな立場で、ご縁があります。



そのうちの1つに、戦国時代の姫だった過去世があります。



琵琶湖のほとりの山城で産まれ、落城し、今もその城跡が残っています。



その姫はある大名に嫁いで、結婚した後は、旦那の転勤というか国替えみたいなのに伴って、琵琶湖周りの城をいくつか転々とします。

その時の大名の旦那さんは、今世の私の旦那の過去世です。



琵琶湖の最後に住んだのが大津城。

 

天下分け目の関ヶ原の戦いの時。


豊臣方につくか、徳川方につくか、どの大名も迷いに迷った。



私達夫婦は、豊臣にも徳川にも親族がいるので、どちらも選べず、結局、どちらも選びませんでした。



どちらの軍にも出陣せず、大津城に籠城しました。



出陣して裏切る者も多い時代だったけれど、『出陣しない』という、戦国大名にあるまじき選択。



豊臣方とも徳川方とも、どっちにも裏で繋がっている。

どっちにも期待されている。



けれど立地的に、豊臣として出陣しないがぎり、空の大津城に豊臣軍が来るだろう。



城にこもり、何も動かず、全てを天に委ねたとも言えます。



表向きには、豊臣を裏切った形になったので、大津城に豊臣の主力部隊が攻めてきて、過酷な9日間の籠城戦。



大津城に大砲を打ち込まれ大破し、もうダメだと降伏し、大津城は落城。



けれど、豊臣の主力軍を大津に9日間も足止めしたことで、彼らは関ヶ原の合戦に間に合わず、関ヶ原は徳川軍の勝利で終了。



敗戦の将である私達夫婦でしたが、家康にメチャクチャ感謝されて、他県に一国をもらい、大名として復帰しました。



落城した大津城は、大砲で大破したのに、なぜか奇跡的に天守閣だけは無傷で残ったのです。



家康が『あの激戦を耐え抜いて、無傷で残ったこの天守閣。縁起が良いので、新しく建てる彦根城の天守閣としよう』と言い出し、天守閣を大津から彦根に移築しました。



これが今も残る、『国宝』彦根城の天守閣です。



私達が守った天守閣を、井伊家が大切に守り、400年後には『国宝』になりました。



そんなマイナー戦国大名夫婦のストーリー。





竹生島の後から、彦根城に行きました。


けれど、彦根は観光客で激混みで、天守閣に上るのに90分待ちの大行列。



私達は天守閣に上がるのはあきらめて、外から写真撮っておわり。


だって、昔、住んでたし(笑)。



私の中の、戦国大名の奥方様がささやいてくる。



『もう、いいよ。戦いは終わったよ。落城した城跡も行かなくていいよ。勝ち負けじゃないよ。出陣しなくても、負けても、私達の城は結果的に国宝になったんだから。琵琶湖から流れるこのエネルギーが戦国を終わらせて平和な時代を作る礎になったんだから』



戦国時代にしては地味な役割だったけど、スターシードとして琵琶湖周りに平和の基礎を作ると言う裏方のエネルギーワークはしていたらしい(笑)



なんだか晴々とした気持ちで、城の櫓から琵琶湖・竹生島を眺めました。




戦国時代、うちもいろいろ竹生島に寄進したり奉納したりしてたはずだけど、当時は女人禁制だったから、行けてなかった。



今世、旦那さんと娘と、平和に遊びに行けてよかった。



そう言えば、この大名夫婦、仲良いんだけど子供ができなくて、側室の産んだ子を育てたりして、大変だった。



今世、この旦那と結婚して、絶対、子供を産みたかったのは、この奥方様の悲願でしたね。



さぞや、喜んでいることでしょう✨


続く