秋分の日、この土日は、北海道に帰省。

札幌の姉の家で、父の遺骨を見に。



名古屋からは北海道への直行便が少なくて、なかなか飛行機が取れにくく、土日の弾丸ツアーとなりましたが、やっと行けました。



行きは、高速が事故で渋滞したり、私が空港のトイレ?にカーディガンを忘れてしまって、さがしたりしてるうちに、搭乗時間ギリギリになって慌てたり、北海道についてからも、予定のリムジンバスが満席で乗れなかったりとか、いろいろありました笑い



姉の家では、ちょっとした棚に、遺影の小さな写真と、遺骨があり。

おりんはあるものの、線香もなく。



棚の上段には、先になくなっている、姉の旦那さんのお父さん、お母さん、おばさん達の遺影が飾られていて(全員、創価学会員だった)、姉は、今までもそんな感じで、あまり宗教色のない、最低限のまつりかたをして来たのでしょう。



好きだったお酒のお土産をそなえて、おりんをならし。



あとは、一年ぶりに会う、姉夫婦や母と夕飯を食べながら、お酒飲んで、盛り上がり。



たまに父の悪口とも言えない、からかいみたいな話で笑ったり、良い死に方をしたとか、死んでホッとしたとか、そんな話ばっかりで、涙も何も無かったです笑い



私達は永遠の生命を信じているから、80まで地上で生きて、地球でいろんな体験をして、宇宙に帰っていった父の死を、別に悪いものとは思っていなくて。



仏教では、お葬式とか四十九日法要とか厳粛な儀式がいろいろあるけど、キリスト教では天国に帰ったと喜んでお祝いをするらしいです。



地球の『ものさし』はいろいろだから、単にどれを使って見るかの違いで、文化によっては正反対のことが『良いこと』と言われていたりして。



うちは、さんざん、宗教に翻弄されたから、ものさしがシャッフルされて、飛んじゃった感じです笑い



普段、飲まないんだけど、姉がわんこそばのように、次々、お酒を用意してくれるから、かなり酔って。



帰り際に、遺骨の箱を開けて、骨を触って、娘にも触らせたりして。



でも、そこに父の何かが宿っているとも、もう思えず、抜け殻みたいな感じしかしない。



来年には、それを砕いて海に散骨する予定です。


借り物の身体は、地球にお返しします。




久々の北海道は、空気が澄んでいて、広々として、空気が軽くてサラッとしていました。



北海道には神社も寺も少なくて、あるのは自然。



昔は、それを寂しく物足りなく思っていたけれど、今は、それが軽く心地よく感じられます。



翌日、私が結婚式をしたホテルが来春に閉館するらしいので、チラッと立ち寄り、衣装室のあたりで記念に写真撮って来て。



いろいろ、時代が終わっていきます。



けれど、無執着で、風通しよく生きることが、今の私には心地よいです。




帰りの飛行機から、富士山が見えました。


東京⇔札幌の空路と、名古屋⇔札幌の空路は違うので、見える景色が違って、新鮮でした。



名古屋に着くと、いきなり、シャチホコと味噌カツの広告がドドーンとお出迎え。



さわやかな薄い北海道の空気から、いきなり密度の濃い感じに、ちょっと笑う笑い



別に、どっちが良い悪いじゃなくね。



空港の案内所に立ち寄ると、忘れたカーディガンが届いていて、すぐ返してもらえました。



逆風と追い風みたいな、行き帰りでした。



家に帰って、姉からもらったお土産を開けていると、姉が遺影の写真を入れた小さな額を入れてくれていたらしく。


娘が額の箱を開けると、コバエよりも小さな虫がぷーんと出てきて、どこかに行っちゃいました。



写真さえも、形のようなものも、本当は何もいらないのだけど、人間らしさの一つとして(笑)飾っておきます。