トラウマとオキシトシン | カオリのひとりごと

トラウマとオキシトシン

ボコボコにされてから、もうすぐ1ヶ月になります

ふーちゃんの歌声が私からオキシトシンを分泌させてくれて、ストレスを軽減させてくれているので、なんとか生きています

ふーちゃんと仲間たちを愛でる事で、なんとかなっていると思っていたのですが

なかなか「人の心」と言うものは、複雑に出来ているようです

おばさんのブログを穴が空くほど見てくださっている方は知っていらっしゃるかも知れませんが、おばさんは医療系のお仕事を複数、経験して来ました(かなり昔の話しですが)

職業柄なのか、耐性が出来ているのか、血やグロいものに対して、全く何も感じませんでした
「SAW」とかワクワクしながら観られる人です

しかし、今回の流血事件は、私が捉えている以上に、自分のトラウマになってしまっていたようです

テレビを見ていると、女性が腕から血をダラダラと流しながら、助けを求めて現れると言う映像が流れて来ました

その映像を見た瞬間、恐くて恐くて、大量に流れ落ちる血液を見ていられなくなり、テレビを消しました

まさか、作り物の血液で恐怖を感じるなんて思ってもみませんでした

定期検診では、普通に採血が出来たのですが…

人間の記憶と言うものは、複雑と言うか、断片的に記憶しているものなのでしょうか?

「女性 」「被害者 」「血が滴り落ちる」
このワードや映像が、私に恐怖や、生命の危機、絶望感と言う感情を思い起こさせるスイッチになってしまったのかも知れません

特に血が滴り落ちる映像で、思考がフリーズしてしまいました

私が私を考察してみますが
加害者であるにも関わらず、被害者ヅラしている同居人と同じ家に住み続けて、未だに一緒に暮らしていることが、歪みを生じさせているのだと思います

同居人と離れて暮らせるのであれば、たまにその時の事を思い出して、泣いたり喚いたりしても、恐怖を思い起こさせる張本人と距離を置く事で、次第に恐怖も薄れていくでしょう

しかし、私の場合は、同居人と生活を続けています

この状況を例えるならば、バケツの中の汚物に、蓋をしているだけの状態で、その蓋もちゃんと蓋をする事が出来なくて、半分汚物が見えているような状況で暮らしているわけです

精神衛生上、同居人とこのまま生活を共にすると言う事は、半開きの汚物をチラチラ見ながら暮らすようなものです

正しい選択は、汚物を自分の腕で持ち上げて、同居人の頭の上からそれをぶちまけて、後ろを振り返らずに、別の地で新しい暮らしをすることです

いくら、ふーちゃんと仲間たちに癒しを求めても、虚像のキラキラは、そのキラキラが眩しければ、眩しいほど、キラキラの裏側で、ドス黒い気持ちに支配されて、抜け出す事が出来なくなります

キラキラの虚像に憧れて、大事な時間や金を使えば使うほど、深くて暗い沼に引きずりこまれ、抜け出せなくなります

でも、だからと言って、小動物に癒しを求めるのも、少し違うなと思います
健常者が1人もいない家庭で、動物は飼えませんし、責任が持てません

ふーちゃんに癒しを求め続ければ、沼にハマって、全財産を失くすかもしれません

失くしてもいいような気もします
どうせ、そんなに長く生きられないし、子どもも学校を卒業しましたし、私に何かあれば、お国が動いてくれて、しかるべき施設に入所出来るでしょうし

認知症の主人も、数年後には、施設入所するのでしょう

イデコも積み立てニーサも、夫婦2人で生きていく為の節約や、老後への投資でしたが

もうどうでもいいです
どうでも良いのですが、大人になればなるほど、死が恐くて仕方なくなります

死だけは、全ての人間に与えられたものですし、誰かを愛そうが、憎もうが、その対象にも、自分にも、死だけは必ず平等に訪れます

なるほど…
私に必要なのは、アイドルでは無く、手塚治虫先生の「ブッダ」なのかもしれません