2024年3月30日(土)
Rev1 2024年4月4日(木)
がんになった時に多くの人が
お世話になる「緩和ケア」。
過去に主治医と緩和ケア医の連携がないのを見て大きな不信感。
患者の気持ちも振れに振れて大変だった。
周りも対応に苦慮した。
【緩和ケアは必要… だけど不安】
何かのボタンの掛け違いかな…。
15年ぐらい前の話になるが、緩和ケアが上手くいかなかったケースを経験した。
なぜ、主治医と緩和ケア医がうまく連携が取れなかったのだろう……。
ー 話に出てくる登場人物 ー
患者(総合病院の管理職で病診連携 (※1)のトップ 進行性の肺がん)
患者の両親(高齢で患者の面倒を見れない)
患者の妹(患者の病気に無関心)
患者の友達(元・昔看護師)
緩和ケア医
専門病院の主治医
夫(患者の友人。手術の立ち会いも行う。週末は泊まり込みで患者の面倒を見ていた)
※1 病診連携とは| 医療機関には、患者の「かかりつけ医」がいる診療所と「専門医」がいる総合病院があります。 診療所と総合病院が緊密に連絡を取り合うことで、包括的で一貫性のある医療を患者さんに提供することが可能となります。 この二つの医療機関の連携を病診連携といいます。
ー 意見対立の構図 ー
主治医・夫 VS 緩和ケア医・妹・患者の友人(元・昔看護師)
患者は判断能力が低下、気が弱くなっており、その場にいる人の意見に流されやすい。患者からは、「主治医の治療方針に従い、夫の判断に任せて動きたい」とお願いされたのだが、途中で横やりが入り予定通りの治療が出来ない。
◆◆◆
【1. 肺がんが見つかった経緯】
患者は旅行先で交通事故に遇い肋骨を折った。その時に偶然、肺がんが見つかる。ごく初期のがんなので、交通事故のケガと合わせて、肺がんの手術を一緒にやってはどうかを勧められだが、旅行先で手術は行わず(両親、妹は旅行先に来ないと言われたので手術ができない)1ヶ月後、勤務先の病院で手術を受けた。
1ヶ月前は、小豆ぐらいのがんだったのが、倍ぐらいに大きく成長していて、他のリンパ節に転移もあった。進行の早い肺がんだった。職場仲間の医師が必死で国内外の文献を調べた。使いたい薬もあったが、標識治療では使えず、足の早いがんに対して先手の治療が出来なかった。放射線治療、抗がん剤も思った結果にはならず、放射線治療による間質性肺炎、抗がん剤の吐き気止めのステロイド剤よる副作用に悩まされた。
【2. 患者の闘病生活】
動けなくなるギリギリまで病院に勤務していた。平日は夫が毎日夜、電話を入れて体調の確認。週末は片道2時間かけて泊まり込みの看病を2年間続けた。両親は高齢で患者宅に通えない、妹は一度来たがその後は来ない。協力をお願いしてもダメだった。
【3. ここからが本題】
ある時、主治医が出張で平日2日間、夫も仕事で週末の面倒ができなかった4日間の間に、問題が起きた。
主治医にも夫にも告げずに、患者の友達(元・昔看護師)と妹で患者を緩和ケア病院に移動してしまった。寝耳に水の行動に、主治医も夫も驚いた。患者の強い意志なのか、周りの助言なのかは分からない。「主治医も夫も不在の4日間が不安だった。」と後に言われたらしい。
落ちこんだ気持ちの立て直しに1週間ほど緩和ケア病院で静養するのであればともかく、長期に入院したら治療が後手にまわる。主治医も戻って来たので、病院へ入院する手配をしたのだが、今度は、患者の友達(元・昔看護師)と妹が首を縦に振らない。
「どうせ死ぬのだから(末期)」という理由。末期、どこからそんな判断が?主治医は末期とは判断していない。妹、患者の友達(元・昔看護師)の早とちりか? 緩和ケア医は、主治医から情報をもらっていないので、患者側の話を真に受けてしまった可能性はある。夫は、治療放棄をしたわけではないと、話し合いの場が持たれた。
○ 主治医との話し合い
主治医チームと夫は、新薬が出るまでの繋ぎの治療を考えていた。末期とは考えていない。まだ、ステージⅡB。もう少し時間を稼げれば、新薬が使える。主治医、妹、夫の3人で話し合いの場を持った。
夫は医師からの信頼は厚かったが、家族でない理由で治療の決定権が持てない。妹の理解を得られず話は決裂。
○ 緩和ケア医との話し合い
緩和ケア医との話し合いの場も持った。
緩和ケア医、患者の友達(元・昔看護師)、妹、夫の4人。
主治医の今後の治療の方針を夫が伝えるも、どうせ長く生きられないのだからと、患者の友達(元・昔看護師)、妹が治療を拒否。
夫が話し合いに参加する前に、既に3人で話し合いが終わっていたらしい。この時も緩和ケア医のガードが絶大。退院させることが出来なかった。入院をしている期間、終末で治療はしないのだからとがんのマーカー値を調べる血液検査もしてもらえず。
その夜、患者の友達(元・昔看護師)と電話で大議論になる。「主治医の治療方針に口を出さないで欲しい」とお願いすると、「家族でないくせに」が殺し文句で応戦してくる。外野のあるある事例、病気のことを勉強をしていない、介護・看護、付き添いもしていないのに口だけは散弾銃のように達者な人。
患者本人は生きたい気持ちがあるものの、
気持ちの浮き沈みがある
緩和ケア医と話す時は、
優しくされるので辛いことはしたくない
(治療を放棄の気持ち)
主治医と話す時は、
治療に前向き
(病診連携のトップとして仕事を全うしたい)
最終的には、緩和ケア医の影響を大きく受けた、妹の判断で事が進んで、治療断念となった。ここで夫の役割は終わった。
治療を止める決断をしたのであれば、病院で1人でいるよりも実家に戻った方が心細くないだろうと、緩和ケア病院を退院させ、在宅で医療を受けることにした。
【4. 患者のその後】
最後は自宅で亡くなった。肺がんの最後、息ができなくなって苦しんでいる患者を見て、医師が意識レベルを下げるかどうか妹に聞くも判断が出来ず。妹から夫に電話が入る。「死ぬ前に何か声をかけろ。」と、患者は水で溺れている状態と変わらない苦しみを持っているのに…「意識レベルを下げてくれ」と夫がお願いして、数十分後、患者は息を引き取った。
進行性の肺がんだったが、まだステージⅡB。微妙なバランスを取りながら頑張って2年…。
仲間の医者も夫も無念の一言。夫が後日、主治医に挨拶に行った。
【5. 何が問題だったのか…】
何が問題だったのだろう?
・常に患者の傍に夫がいなかったのが問題だったのか。
・患者が一時、気持ちが落ちこんだ時に、楽になれ(治療放棄)と勧めた妹、患者の友達(元・昔看護師)が問題なのか。
・緩和ケア医と主治医の連携が上手く取れなかったのが問題なのか…。
治療の歯車が一番狂ったのは、患者が主治医と夫に前もって「緩和ケア病院に数日入院する」を言わなかったのが一番の問題ではあるが、複数の問題が絡まった結果、最後はこのようになった。
私の中の疑問は、なぜ緩和ケア医は主治医と協力体制を取らなかったのかということ。事がスムーズに運ぶように、夫は主治医と緩和ケア医の架け橋をしていたのに…。何かスッキリしない。患者が亡くなった後に夫から教えてもらったのだが、緩和ケア医と議論の中で、病院に対して良い感情を持っていないことを知ったのだという。患者はそこの管理職で病診連携のトップ。他の緩和ケア病院に行っていたら、協力体制がとれたのかもしれないな…と「たら、れば」の話。
私達が、緩和ケアに対して不信感を抱いた出来事だった。患者は緩和ケアではなく、終末期医療を受けてしまった。患者の気持ちの乱高下が激しい時の治療のかじ取りの難しさを感じた。
私達は、患者は生きたかったのだと思っている。勤め先の病院を動けなくなるギリギリまで勤務した。夫も患者の親族もここは考えが同じで「社会的地位を失う辛さは分かるが、退職してはどうか」と提案したが、そこは流さず自分の意志を通した。