長い年月治らなかった失語症が治った本当の話

 

Rev1  2024年3月8日(金)

2023年12月15日(金)

 

病気や後遺症からの回復、

一般的には難しいと言われていても、やってみなければ分からない。
前例がないなら、自分が作れば良いさ!
 

 

 

 

【ただのIT教室に 何ができるのか?

 

15年以上前の話になるが、IT教室を運営していたことがある。主に企業向けだったが、一般向けの教室、公民館でボランティア活動もやっていた。

パソコンの基礎知識とビデオ編集基礎を浸透させたいと思った。



今でも記憶に強く残る出来事がある。失語症の40代の女性が母親に連れられて教室に来た。脳梗塞を起こし前頭葉を切除、後遺症で「失語症」になって長い年月が経っていた。母親の手を握り「ママ…ママ」と不安な声。失語症だとこちらもすぐに理解できた。

 

 

※  失語症は言語障害の一種で、「話す」「聞く」「読む」「書く」などの言語機能が損なわれ、それらがうまくできなくなった状態。

 

 

高齢の母親もかつての生徒。3年ほど在籍した。娘の行く末を案じて何か回復のきっかけになればと何年かぶりに頼ってきた。

結果論、3年後には健常者と同じように話せるようになった。

 

 


 

【よく分からないが、 会話が出来るようになった事実

 
 
娘さんは3年程在籍した。他の人と合同レッスンはできないので3年間個人レッスン。
目標は、1人でバスに乗り教室に通うことができるようにすること、そしてレッスンが終わった後、うまく話せない状態でも緊張しないで私達とコーヒーを飲みながらコミュニケーションを取ることが目標だった。
 
 
 
日本語は、私達が外国語を聞くのと同じ感覚のように単なる音として聞こえているだけで、意味を理解できていなかった。
 
 
彼女と付き合っていく中で、大学時代「社交ダンス」をやっていたことを知る。アルバイトをしながら高い衣装費を出していたことを話してくれた。そして「Cha Cha Cha」という言葉に特に彼女が強く反応した。多分、一番好きだった種目のだろう。夫は、キーボードから「チャチャ」という言葉を打たせた。
 
 
 
次にやったこと。 「一度獲得した言語機能を失ったのであれば、また再び覚え直せば良い」と夫がアドバイスをして、それを実践。
「あいうえお」から覚え直した。そこからの回復は目覚ましかった。日本語の音を、意味として理解できるようになった。自我も出てきて母親を頼る小さな娘から大人の女性に戻った。たった3年…驚きだ。
 
 
 
医療関係者にその話をするも、言語中枢をつかさどる部分を切除したのに、健常者と同じように話せるのは信じがたいとのこと。
が、回復したのは事実。脳の未知の機能の凄さに驚かされた。以前の彼女なのか新しい人格かは分からない。


3年程在籍して卒業されたのだが、2~3年後偶然、街中
でバッタリと会った。私たちのことも覚えていたし、健常者と変わらない話し方。PTAの役員の仕事も出来ているとのこと。ここまで回復したら退行することはないなと安堵したのをよく覚えている。
 
 
 
残念ながら、問題点も出た。家族だ。回復を最初のうちは喜んだ。しかし、回復の過程で自我が出てくるので、両親や配偶者の言うことを素直に聞かなくなった。思うように彼女を動かすことができなくなって、回復を望んでいるハズなのに回復してもらっては困るという、相反する気持ちが家族に出てきて、一時、教室を退会させる話まで出た。それをやめないと押し切ったのは娘さんの強い意志だった。
 
 
 
 
【うつ病になった、 友人にも応用できた
 
 
この経験は、私の大学時代の友人に役立てることもできた。仕事で大きなストレスを複数抱え込んで「うつ病」を発症してしまった。自殺未遂まで追い込まれた状態。
私達の教室を頼って来た時は、かなり病んでいた。信じられなかった。天真爛漫で交友も広く人間付き合いが上手な人が何故??
この時、一番大事にした時間は、レッスンが終わったあとの雑談だった。


大学時代、よく遊びにも出かけた友人だったこともあり、友人の性格・嗜好を知っていたのが助けになった。彼女は「好奇心が旺盛で食べることが大好き、おしゃれ、お喋りが好き」。


彼女の好奇心を沸かせるような食材や料理、お菓子を出した。来た時は、必ず夕飯を一緒に食べて、駐車場まで送り家に帰すようにした。休日には景色が綺麗なお洒落なイタリアレストランにも連れて行った。
 

心配だったのは会社にいる時間の過ごし方。IT系で得意な分野を1つは持たせた方が良いと考え、在籍した3年間のうち約半分の時間はMicrosoft WordをIllustrator(イラストレーター)並みに使いこなせるところまで覚えてもらった。会社の企業研修なら6時間、長くても12時間なので相当に長い時間。そこまで本気でやらないと会社で一番の使い手になれない。
のちに、社員旅行のパンフレット作成は自分が担当になったと教えてくれた。

 
残り半分の時間はビデオ編集。当時はYoutube動画は韓国では流行っていたが、日本ではまだ流行っていなかった時代。ビデオ編集も少しだけ覚えてもらい完成したDVDを会社の人に見せて、少し優越感を味わってもらう。うつ病の「〇〇さん」から、Wordとビデオ編集ができる「〇〇さん」に変わることができた。存在意義ができ卒業。
 
 
 数年後久しぶりにあった友人、あれほど辞めたがっていた会社も、今は定年まで働く気持ちでいるという。


「あんたの所、高かったよねー。」


と毒を吐く。
うつ病だった頃の記憶は、かなり薄れていた。自己防衛反応なのかもしれない。辛い昔を思い出す必要はないので、その頃の話は出さないが、どれだけ神経を使ったか…コノヤロウだ。

 


 

自分の家族や友人が病気になった時、その人が一番好きだったものを知っていると、回復のキッカケにすることができるという貴重な体験を、2度経験した。外科的にありえない事例も見た。今の医療知識の常識と言われることはほんの一部なのかもしれない。



夫の闘病にもきっと応用できる。




私が病気になった時は、社会ダンスの「rumba(ルンバ)」が回復のキッカケになるのだろうな。でも、誰かが覚えていてくれないと…困るのだけど…。