行って来ました、ジュリー!!!
カッコ良かったよ〜〜〜〜〜♪
私は、東京に行くときは必ずと言っていいほど寄るお店があります。
上野駅構内にあるカフェです。
ここの、ハヤシライスは絶品です。
この日も、ランチしてから有楽町駅に向かいました。




思い出の場所に行って来ました。
現在の松井ビル。

ヤングメイツが入っていた東宝ツインタワービル。

ヤングメイツかあった場所は、現在はシャッターが閉まったままです。


ヤングメイツからすぐに、地下鉄の入口で、ここで徹夜しました。

この二階のお店で、初めてパンケーキなるものを食べました。
今は、空き店舗みたい。
窓際はツインタワービルが良く見えるんです。




さあ、昔の思い出にさよならして
フォーラムに向かいます。

私の席は二階の下手寄り前方ですが、フォーラムは広くて双眼鏡がなくちゃ見えないです。

ブザーがなってジュリーが下手より出て来ました。
珍しく手を振りながら〜


オープニング曲
気になるお前♪
最近歌ってないから聴きたかった曲です。
テンション上がりました。

そして何より、ジュリーの衣装が素敵です。
黒を基調にブルー地が入っていて、ジャケットは長めでカッコいいです。
左右、長さが違ったかな?
ブルーは私にはグリーンに見えましたが、照明の関係でそう見えたみたいです。

ひとつひとつのセットリストは書きませんが、とにかく去年の衣装のピエロが私的には嫌だったことと、曲が去年はいまいちだったので今年はヒット曲を多くしたみたいですね。

ジュリーは痩せましたね〜
間違いなくシュ!!!としてました。
顔も双眼鏡で見たところ、頬がこけていました。

痩せて身体が軽くなったのか、動きが軽やかになり、あっちに行ったりこっちに来たりの動きが30代に見えました(^o^)v
言い過ぎか(*^^*)


ショーケンが亡くなったことは、本当に堪えたそうです。
俺はショーケンが大好きだ!と泣きながら叫びました。

感情をありのままに出すジュリーが珍しい。
先輩の加瀬さんや尭之さんと違い、ショーケンは仲間でしたからね〜
あの当時のGSを知っているかたなら、ジュリーといえばショーケンでしたから。

3秒の黙祷がありました。

次々とヒット曲が続き、さすがSHOUT!
間にバラードを入れて、またこの曲で泣かされました。
そっとくちづけを♪
ショーケンを思ってか絶叫でした。

声は、練習のしすぎか、ざらざらしてましたが、それにも増してすべての曲を心から歌い、今年71歳になるかたとは到底思えません。

ジュリーは裕也さんの事は口にしませんでした。

でも、哀しきチェイサー♪を歌ったとき、これってもしかしたら、裕也さんが出ていたドラマの曲じゃなかったっけ?
確か、裕也さんが私立探偵でジュリーが助手の。
tubeで見た覚えがあります。

そうか、やっぱりジュリーは歌で追悼ですね。


お前は魔法使い♪を歌ったんですよ〜
私はリアルタイムでは聴いたことなくて、tubeで見ただけですが、あのパフォーマンスもそのままで嬉しい😃

新曲はまだ聞き込んでいないので、良く分かりましぇん(。>д<)


お着替え後は…………………(^o^)v
ニャーニャータイムです。
猫の着ぐるみを着たジュリー……………(。>д<)
ワケわからんです(。>д<)
サンマのマイクって、なんやねん

ニャーニャーで会場のお誕生日の方に
おめでとうニャー、とかやってました(。>д<)
ハッピバースデーニャー😱

そしてこのまま、TOKIO♪ですか〜
さよならを待たせて♪ですか〜

さよならを待たせての、ため息を猫の着ぐるみでやるほうもやるほうですね〜(。>д<)


私の頭が固いのか、オープニングがあまり素敵で、感激したのに着ぐるみのジュリーは
あまりにもファンにサービスし過ぎのような〜


ジュリー、いい意味で変わりましたね。
自分の身近な方々が亡くなられて、生きている方を生かされている、と表現しました。
自分も、そしてファンの事もね。

ステージの上から、観客との掛け合いは若い頃からありましたね!
あーと言えば、あーと答え返す!
ニャーと言って、ニャーと返す、ですがね(*^^*)

あと、前にヒット曲は毎回毎回歌うのは飽きた、とも言っていましたね。

去年の観客のひとりが、ヒット曲歌えーと叫んだりしたのを気にしたのでしょうか。
結構、気にしいの方ですよね。

今回、ヒット曲満載ですよー


うーん、ファンにサービスなんて考えずに、自分の好きな歌を好きなように、歌いたい歌を気にせずに歌って欲しいのですがねー。

ま、ジュリーのお好きなようにやってください。

忘れちゃった
すべてが終了して手を振りながらジュリーとカズさんが下手にはけたあと、BGMが〜
なんと、決めてやる今夜♪のイントロ。
しかし、いいから〜と歌い出したところでブチッと切れました。
ニャーニャーばかりやってるから時間を推しちゃったかな〜
次回をお楽しみに。
今日は、私の家族の最終章として夫の事を書きたいと思います。

まずは私と夫との馴れ初めから(^○^)

私は20歳で地元に出来た大手のスーパーに就職しました。
そこで仲良くなった同僚がいました。
彼女とはウマがあうと云うのか、
仕事帰りにはお茶したり飲みにいったりしていました。

22歳の夏、その同僚が自分の恋人と待ち合わせをしていて、私にも一緒にと誘われました。
彼の友達が来るから紹介するね!と妙に明るく言われて、どんな人が来るのか興味があり行くことにしました。

純喫茶クラウン♪
当時、気軽に入れる喫茶店とは別に
敷居が高いお店も多かったように思います。

クラウンは、昼間は純喫茶で飲み物と軽食、夜はアルコールも出すお店となります。
店内は、ジャズがBGMで22歳の私達には少し背伸びをしたお店でした。

BGMがジャズにも関わらず店内にはなんとジュークボックスがあり、タイガースやジュリーをかけては喜んでいましたけど、マスターが良い人で何も言われませんでした。




あの日の事は今でも良く覚えています。
夫の第一印象があまりにも強烈で(。>д<)

友達と二人で、水割りを飲んでいるところに、普通のサラリーマン風の男性ともう一人、あとから入ってきた男性がいました。

髪の毛は伸び放題でボサボサ、髭はぼうぼう(;´_ゝ`)
Tシャツに短パン、サンダルばき(。>д<)

この、むさ苦しい男性が後に私の夫になる人でした(笑)
聞くところによると、彼は夏休みをとり別な友人と、新島に行っていてその帰りだったとの事でした。

4人で飲みながら、新島の話を聞いたりして、ふと彼の足元を見たら、なんと砂が落ちていました。
新島の砂が付いていたのですね。

話が盛り上がり、明日会おうか!
と、なりました。
私は公休でしたから、じゃ、海に行かない?となり次の日に会うことにしました。
初デートです(*^^*)

次の日、別な喫茶店で少し早めに待っていると、彼が私を見つけて席まで来てくれました。

私は極度の近眼で仕事中はメガネをかけていますが、メガネ嫌いなんです。
仕事中以外はかけていないため、ほとんど判別出来ないのです。
誰かと待ち合わせする場合は、だから必ず先に行っていて相手に見つけてもらうのです。
私が後から行くと相手がどこにいるのかさっぱり分からないのです。
当時、高かったコンタクトレンズにもしましたがソフトもハードも何故か合わなくてやめました。


彼は、昨日とは違い髪の毛も綺麗にセットして髭もなく、Tシャツにジーンズでさわやか青年に変わっていました。

海までのドライブ中、いろんな話をしました。
歳は私より三才上で、家も近いとのこと。
今は会社に勤めているが、家が自営業なので将来は親の跡を継ぐこと。
音楽が好きで、バンドを組んでギターも引いていた。

えっ、じゃジュリーは知ってるよね?
タイガースは知ってるでしょ?
矢継ぎ早の私の質問に、なんだ、ジュリーのファンなんだ?
俺は、ビートルズかなぁ〜
でも、タイガースの花の首飾りは好きだよ、
うっそ〜、トッポかよ〜
ジュリーは?ジュリーは?
ジュリーはあまり好きじゃなかったみたいです(;´_ゝ`)

楽しく会話は続き、海に着きましたが
波が高くて入れず、
まあ、お盆過ぎの海は波が高くなるのが普通でしたからね。

私達はお付き合いを始めました。
ほとんど毎日、先程の彼女とその彼と私達の4人で遊ぶようになりました。
いわゆるグループ交際というやつですな。
そうそう、男二人は中学の同級生でした。

そして一年がたった頃、私達は結婚しました。
私達を会わせてくれた二人は、破局しました。
なんということでしょう。
人生、いろいろです(;´_ゝ`)


両親の項で書きましたが、父親には反対されたため籍だけ入れて私達は式は挙げませんでした。
まぁ、私達は結婚式とかは初めから挙げる予定はなかったので、別にいいんですけどね。

形式的なことは苦手な二人でしたから、それでも父親の反対は結構ショックで、一緒に住み始めれば反対も何も無い、と言う意地みたいなものがありました。

最初に借りた部屋は、一軒家の借家でした。
アパートは二人とも嫌いで、庭がある一軒家を探しました。
そこには4年ほど暮らし、子供が出来たのでもっと広い家に引っ越しました。

こちらも、一軒家で部屋も多くて庭には家庭菜園も出来るほどの広さがあり気に入っていました。

夫は、この家を大家さんに言って買ってしまおうか、などと話していたのですが、小学校までは歩いてかなりの距離があり、実家は目の前が小学校で便利だし、なにより私は跡取り娘という責任がありました。


実家は部屋数は多いのですが、古くて寒い昔ながらの家でした。
プライバシーも何もなく、夏は玄関開けたら奥の部屋まで丸見え、という家です。

私達夫婦と子供だけなら良いですが、両親にとっては夫は他人なので住みづらいと思ったのか、庭の片隅に家を建てて私達がいつ帰ってきてもいいようにしてありました。


10年振りに私は家族で両親の元に戻りました。
私達はこの家で子供を育て、父親を見送り母親を介護し、見送りました。

父親が亡くなった年でした。
平成17年の夏………。
夫はいつものように、仕事を終えて10時頃に帰ってきました。
帰るとすぐにお風呂に入りますが、その日は少し疲れたから、一杯呑んで寝る、と言いました。
父親と同じにお酒が好きで、夜は必ず晩酌をしました。
でも昔から綺麗な飲み方で、父親のように騒いだり、ねちっこくなったりはまったくなかったです。
私も今でこそ、飲まなくなりましたが、お酒は好きでデートはもっぱら飲み屋でした。

父親のお酒の飲み方を見ているから、飲まない男の人が良かったのですが、夫の飲み方を見て、こんな人もいるんだな、と私も安心しました。

お風呂に入らないで、お酒を口にして私が作ったおつまみを食べていたときです。

なんか顔が曲がって見えたのです。
そして、よだれなど見たこと無いのに夫はよだれが口元に出ていたのです。

私は夫がすでに病気の兆候が出ていたのに、この時は気づかなかったのです。
なんかおかしいな、といいながらも普通に寝ました。

翌朝、ゆうべはお風呂に入らなかったので
今から入りたい、と言うのでお風呂にお湯を入れました。
しかし、夫はバスルームからすぐに引き替えしてきて、私にこう言いました。
足が上がらない、なんかおかしい!

救急車を呼ぼうか、と言ったら自分で運転して行く。
夫は自分で運転して車で数分の病院に行きました。
もちろん私も一緒です。

すぐに容体をみた看護士さんが救急でなら一般外来より早いのでどうしますか?
もちろん、救急で見てもらいました。
この病院は、母がくも膜下出血で倒れたときに入院していた総合病院ですが、専門は脳外科です。
ラッキーでした。

夫は、脳梗塞と診断されました。
軽度ですが、2週間の点滴治療での入院とのことでした。

結婚してから病気になったことはなく、すこぶる元気な人でした。
まさか脳梗塞とは思いもしませんでした。
この時夫は56歳です。

あとで本人から聞いた話ですが、ベッドでただ点滴治療をされているときは、もう人生が終わったな。と考えていたそうです。

点滴の針は付けたまま、トイレに行ったりは出来ましたが、お風呂には入れず、毎日のように私が身体をふいてあげました。

二週間が経ち、やっと点滴治療が終わり、マヒが残ったかどうかの検査がありました。
左手に少しだけですが、握力が入らない程度でほぼ普通に戻りました。

無事に退院して仕事にも復帰しました。



そして、7年の月日が経ちました。
平成24年、今から7年前です。

脳梗塞になってからは、月に一度は病院で様子を見てもらい血圧を下げる薬と血栓が出来にくくする薬を処方してもらっていました。

この日は、ここのところ頻繁に熱が出ていて、心配なので行ってみました。
私も付き添いました。
へんな胸騒ぎがありました。

脳外科の先生は、脳梗塞になると誤嚥性肺炎になりやすく熱が出やすいから注意するように、とのことでしたが心配は要りません、解熱剤で様子を見ましょう、と言ったのです。

でも私はその答えでは納得いかず、夫は最近、便秘気味でお腹の調子も良くないようなので
内臓関係を調べてほしい。

または、紹介状を書いてほしい、べつな病院に行ってみたいので、とお願いしました。

国立の大きな病院にその日のうちに行き、紹介状があったのですぐに消化器内科で診察してもらいました。


検査の結果、なんと大腸がんでした。
それこそ、が〜〜〜〜ん!!!!です。
まさか、信じられませんでした。
もちろん、夫が一番ショックだったでしょう。
即、入院となり、仕事は辞めることにしました。

63歳でしたが、60歳で定年退職して再雇用でそのまま同じ会社に勤めていました。

そうそう、夫は結局実家の自営業は継ぎませんでした。
安定した収入を選んだのと、夫の兄達との仕事は嫌だと言っていましたから。
義兄が一人で、義父親の仕事を継ぎました。


入院して、手術日が決まり私と夫で詳しく先生からの説明がありましたが、なんと大腸がんは8センチもの大きさで、内視鏡では無理で
開腹手術となりました。
ステージ4でした。

夫は、切腹かぁー!と、嘆きましたが、助かるなら切ってもらいましょう、と励ましました。

5時間かかりました。
夫には話しませんでしたが、主治医の先生から開腹してみて、もしかしたら膀胱にも癌が転移していたら膀胱の一部を、切除します。
と聞かされていました。

結果、膀胱の3分の1の切除でしたが、今でも夫は知りません。

結構、気が小さいんです。
大腸だけではなく、膀胱にも癌があった、と知ったらきっと誰でもそうでしょうが生きる力が失くなりそうで言えませんでした。

二週間の入院で、かなり痩せてしまい、退院してからは食事療法が始まりました。
仕事は辞めたとはいえ、体力が戻らないと
免疫力も下がってしまいます。

食べること、これが以外と難しいのですね〜。

脳梗塞から復帰してからは、さすがにアルコールはやめましたが、ご飯はやはりあまり食べないで、副菜で済ますほどの少食でした。

なるべく食べてもらいたいから、白米を玄米に変えたり、炊き込みごはんにしたり工夫してご飯が好きになるように。

副菜は、高タンパク、低カロリーを基本に作り、結婚して初めて料理本など買ったりしました。

ただ、主治医いわく、大腸がんは食事でなったのではないから、食生活を賄っていたあなたの責任ではないですよ、
一番大きい原因はストレスですよ。
だから、ストレスをかけさせないように、いつもゆっくり穏やかに暮らしてください。と言われました。
夫は、その頃確かにストレスを抱えていたのだと思います。
再雇用されたとはいえ、営業職から事務職に変わっていました。
慣れない事務職に毎日ストレスを感じていたのでしょう。
身体は正直ですね〜


退院して7年が経ち、再発の危機である5年を過ぎて
夫は今は、毎日家でテレビ三昧の日々を送っています(*^^*)

私と同じに冬が嫌いで、冬眠していたかのように家に閉じ籠っていましたが、大好きな初夏になりいよいよ活動するときがやってきました。
家庭菜園です。
毎年の楽しみになっています。

先日、庭の片隅の土を耕し、ホームセンターで野菜の苗を買ってきました。
キュウリ、なす、ししとう、青唐辛子、今年は万願寺唐辛子も植えました。

毎日、朝起きてもテレビから始まる生活が、夏が終わる頃までは、庭に出て野菜が大きくなるのを楽しみに出来るようになりました。


私はまだ外に仕事に行っているので、なんとなく役割分担が出来て、私は仕事と食事。
夫は家の外、草取りや野菜作り、家の修理などです。

夫には大病をしたのだから、これからの70代はのんびりと、ストレスをためないで生きてほしいですね。
夫いわく、私の口やかましいところもストレスだぁ〜とか言ってますけどね〜<(`^´)>

膀胱が小さくなったためかトイレが近くて、ドライブなどは出来なくなりました。

なんで、こんなにトイレが近いのか、不振がっていましたが、そろそろ本当の事を話そうと思います。

結婚して、44年目にもなりました。
私の両親じゃないけど、喧嘩したり口を利かなかったり、ばか!、間抜け!と言ったり言われたり(^o^)v
いろいろありました。
お互いに離婚届けにサインして持っていたり(笑)
本当です(。>д<)
タイミングが合わず出しませんでしたけど…。

最近は何処かの誰かと同じで、少し偏屈になり、頑固じじいで困っていますが、ここまで来たら、あとはお互いにいたわりながら行くしかない、と…………。
介護はまかせてください、母親で慣れていますから。


それからおとうさん、
私がジュリーのコンサートに行くときは、もう少し気持ち良く送り出してくださいね(笑)

勝手にしろ!とか、いい歳して何がジュリーだ!
なんて、言わないでくださいね。

ジュリーが好きじゃないのは、付き合っているときから知ってますけどね〜

もう、諦めてください、あなたと知り合う前からのファンなんですから〜(^o^)v











母の人生を書こうと思い立ち、私がしっかりしているうちに残しておこうと思った。

それにはやはり父のことも書かないと、前後が分からないと思い先に書いた。

母は、二人姉弟の長女だった。
子供の頃から洋服を作るのが好きだったらしく、母は高校には行かずに洋裁学校に行った。

その学校は地元の駅前にあって、その時に祖母と知り合ったらしい。

そう、祖母とは他人なのである。

祖母と祖父には子供がいなかった。
母は血の繋がった家族よりも他人の祖母を慕っていた。
年頃になった母は、ある日祖母から養女の申し出があった。

実家には弟がいる。
私は大好きなおばちゃんの子供になろうと、母は決心した。

洋裁学校を卒業して、母はおばちゃんの養女になった。

母は洋裁の腕が良かったらしく、生活には困らなかった。
一時は東京のデパート経由で洋服を縫っていたこともある。
中学校や高校の制服も請け負っていた。
もちろん私達姉妹の服は手作りだった。
洋服に限らず、バッグや小物も上手に作った。
歳をとってからは、お直し専門になったが、
電動ミシンが三台もあり、母は78歳で一度目の病気になるまで仕事をしていた。

母の結婚に戻そう。
祖母からお見合いの話しがあったのである。

祖父祖母の名前を残すため、、、。
祖母が見初めた父と、お見合いして、結婚するのだ。

祖父はすでに亡くなって、祖母、父、母の三人の暮らしが始まった。

まだ父は、お酒に溺れることもなく、真面目に仕事に通っていた。

昭和23年、最初の子供が生まれた。
男の子で邦夫と名付けた。
私の兄である。

そして、次に和子と言う女の子が出来た。
私の姉である。

可愛い、可愛い子供に恵まれ幸せだったことだろう。

しかし兄が三歳、姉が一歳の時に病魔が二人を襲った。
伝染病の赤痢である。

当時はまだまだ流行していたらしい。
高熱が出て、血便が出て、二人はあっけなく亡くなってしまった。
三歳と、一歳。

可愛い盛りの子供ふたりを、一度に失った両親はどんなに悲嘆にくれたろう。

写真が残っている。
お祭りの法被を二人とも着せられて、笑っていた。

私が生まれる前の事だ。

しかし、母はその時私をお腹に宿しており、
二人のお葬式が終わってすぐに私は生まれた。

昭和27年の秋のことである。
父の項で書いたが、私は大事に育てられた。
また病気になったら大変だと思ったのだろう。

甘やかされて、ちょっとした熱でも病院に担ぎ込まれた。

母は亡くなった子供達のことはあまり話さなかった。
病気にさせてしまったと、自責の念にかられていたのだろう。

父はたぶん、その頃からお酒に依存するようになったのではないか。

一度に可愛い子供二人を失くし、父もまた自分を責めていたのだろう。

お酒で辛さを忘れたかったのか、今なら父の辛さが分かるのだか・・・。


私が生まれて、2、3年たった頃、母は男の子を生んだ。

しかし、死産だったらしい。
私は不思議とその日を覚えている。
三歳位の私だったのに・・・。
みんなが泣いていた。
母は見るも無惨に号泣していた。

そして、やがて母は女の子を生んだ。
それが私の唯一の姉妹、妹である。

両親は、三人の子供を失くした。
私達姉妹は、大きな病気もせずに、親に感謝しながら成長した。

父はお酒に溺れながらも、仕事はきちんとしていたので生活は楽だった。

私は、何度もこのブログに書いたが、中三の時にタイガースを知り東京のジャズ喫茶や、日劇ウエスタンカーニバルなどに出かけるようになった。

母は、私が行きたいと言うと黙っておこづかいをくれた。
私の好きなようにさせてくれた。

父には内緒で・・・。
母には、
自分の道は、自分で見つけるように、と日頃から言われていた。
歌手や芸能人を好きになるのは構わない。
でも、必ず自分で道を見つけること。

母は洋裁で身を立てた。
私は、そんな母の娘なのに、洋裁や和裁が苦手で、どちらかというと男まさりだった。
棚を作ったり、植木を切ったり・・・。
あぁ〜、これは父の血だ。
父に似ているのだ。

母は、洋裁はプロだが、料理や掃除などは苦手だった。
あぁ〜、これは私も似ている。
今でも料理は苦手である。

私は、20歳で就職して、22歳で恋をし
23歳で結婚した。

私は、はからずも上の兄姉が亡くなってしまったため
跡取り娘になってしまった。

母も養女で、その母の元にお婿さんに入った父。

二人は、生家の名前を捨てた。

だから私も、本来ならその名前を引きついて、夫にお婿さんに入ってもらわなくてはならない。
しかし、時代は変わっていた。
名前制度は自由にすべきで、夫、妻のどちらの姓を名乗っても良い時代になったのである。

しかし、父は私達の結婚を反対した。
それは夫が、お婿さんになるのを拒否したからだ。
夫の実家は自営業のため、後を継ぐのに私の家には入るが、名前は捨てられなかったのだ。

父は私達を勘当すると言い、私達はそれに従い家を出た。

近くに部屋を借り、父が許してくれるのを待った。
そんな私達を母は心配しながらも、父を説得してくれた。
10年近く親元から離れて暮らしていたが、父も年をとり私達を許してくれた。

息子を連れ私達は実家に入り、長い年月が過ぎた。

平成12年の6月、母は78歳になっていた。
いつものように私達の母屋にあるお風呂に入りに来た。
私達は夫、私、息子ともにまだ仕事から帰っていなかった。
母はお風呂に入らず、父の元に戻り気分が悪いと訴えた。
そして、嘔吐し意識を失った。

隣に住んでいる親類の息子が病院に運んでくれた。
当時、携帯電話は普及していたが、私はまだ持っていなかった。
仕事が終わり、家にいつものように6時に着いた。
息子が先に帰っていて、母が倒れ病院に行ったので私を車に乗せて病院に急いだ。

たぶん、頭だろうと考えたが病院に着くなり医師に、くも膜下出血です、と言われた。

血圧が200まで上がっているので、緊急手術は出来ない。
下がるまで様子を見ます、覚悟だけはしてください、とのこと。

妹に連絡し私達は病院に泊まった。
一睡も出来ずに朝を迎えた。

医師が、血圧が下がったので今から手術します、と言われた。
ちょうどお昼の12時だった。

それから手術が始まり、母は一命をとり止めた。

集中治療室に母はその後、意識を取り戻さず一ヶ月ほどいた。
目が冷めたのは、8月のお盆前。
一ヶ月以上、意識が戻らなかった。

母の第一声は、今日は何月何日?だった。
私が8月のお盆前だよ、と答えたら
近所の新盆参りに行かなくちゃ、と言った。
こんな時でも母は、近所の付き合いを心配していた。


心臓の強いお母さんだ、もう大丈夫ですよ、と医師に言われて、私達姉妹と父は安堵した。

しかし、退院した母は今までの母ではなくなっていた。
急激に体力が落ち、寝てばかりだった。

このままでは、寝たきりになりかねない。

私は、市の福祉課に相談に行き、介護保険の利用の説明を聞き、近くの介護センターのデイサービスを利用することにした。

母はデイサービスを週三日利用し、徐々に元気を取り戻した。

そして、平成17年に父の急死、
母は、少しだけ認知症の気があったが喪主を務めた。

父の死後、母は一人で生活していたがデイサービスには喜んで行ってくれた。


ある日、介護センターの人からの手紙を私は受け取った。

それには、おばあちゃんの身体に黄疸が出ているように思います。一度病院で検査をしてもらってください。
と書いてあった。

母はくも膜下出血で倒れてからは、家ではお風呂に入らなかった。
デイサービスで入ってきた。

私は、母の身体の黄疸には全く気付かなかった。

早速病院に連れていき検査してもらった結果、膵臓ガンだった。
それも末期で年齢も年齢だから手術には耐えられないでしょう。と言われた。

母は認知気味だったから、あまり自分の身が大変と思わないようだったが、それでも私は母にはガンのことは伏せておいた。

医師や看護師さんにも母には内緒にしてほしいと頼んだ。

私もそうだが、もしもガンと云われたら生きる希望を無くしてしまうだろう。
母は私と性格が似ている。

余命3ヶ月と言われたら、すぐにでも死んでしまうんではないか・・・。

実際、母はガンとは知らずに余命3ヶ月を遥かに越えて生きたのである。

母は入退院を繰り返し、膵臓のほかにも胆嚢にもガンができたのにもかかわらず黄疸が発見されてから二年後に、亡くなった。
何も治療はしないで、ただ楽しくデイサービスに行っていた。
母が通っていた介護センターは、民謡やカラオケなどが盛んで母は喜んで行ってくれた。

家にいるときは、私が介護した。
オムツを拒んだ母も、私の説得でオムツをしてくれた。
母は実の娘に介護されるのを喜んでくれた。


私は母を介護するため仕事を辞めた。
仕事を続けながら介護は無理だったし、母は口には出さなかったが、私に側にいてほしいと望んでいると思った。


朝、朝食を持っていって食べさせ、デイサービスの日はマイクロバスが来てくれて出かける。

母がいない時間に掃除や買い物をして母の帰りを待つ。

夜はご飯を食べさせ、オムツをして、寝かせる。
玄関チャイムのベルを母の枕元に置き、おやすみと言って私は引き上げる。

それでも心配で私は何度か夜中に見に行く。

寝不足だか、昼間に母がデイサービスに行っている間に寝ているからそれほど疲れはなかった。

週末は妹が来てくれて、交代してくれた。

余談だが、母を妹に頼んでジュリーのコンサートにも行けたのは、唯一の楽しみだったし
ストレス発散にもなった。
今思えば、母の介護は本当に楽だった。
やはり毎日ではないがデイサービスに行ってくれたので、助かったのである。


母が病気になり、くも膜下出血で一時は危なかったのに持ち直し、父が退院後急死した。
父の死は覚悟も何もなかったが、母は私に覚悟をする時間を十分にくれた。
毎日、食が細くなり痩せ衰えていく母を見て、私は覚悟をしながらも精一杯の事をしたので後悔はひとつもない。


父が母を呼んだのか、父の死後三年で母も逝ってしまった。

母は病院で亡くなるその日、意識が遠のく少し前に、私を目で呼び、こう言った。
口元に耳をつけると、

ありがとう。と・・・・・。
何も言えなかった。
うん!と言うしかなかった。



今頃、父母は、先に行った私の兄と姉、弟、
そして、祖母と仲良く暮らしているだろう。

私の父と母の事を書いてきたが、まだまだ書き足りないことがたくさんあるような気がする。
思い出した時には追記していきたいと思います。