松本俊夫『表現の世界』解説〜激動の60年代を代表するラディカルな作家の貴重な証言〜 (2006)

 

(本稿は、松本俊夫の第二評論集『表現の世界 芸術前衛たちとその思想』(初版1967年, 三一書房)が高崎俊夫の編集で2006年に清流出版から復刊されたときに書かれた解説で、同書巻頭に収録された。)

 

(表紙写真はフェリーニ『8½』[63年]の1シーン)

 

 

 2005年、『銀輪』(1955-56年)が発見された。戦後日本の実験映画史の最初に出てくる1本であり、35ミリ・イーストマンカラーで作られた世界的にも貴重な前衛映画だ。当時脚光を浴びていた「実験工房」の若手芸術家(美術家の山口勝弘や北辻省三、作曲家の武満徹)が協力、製作会社側(新理研映画)からは大学卒業まもない23歳の松本俊夫が実質的な監督として参加という異例の体制で作られた前代未聞の自転車PR映画だった。長くネガもプリントも紛失したとされ、この20年間に数度にわたり調査されたが出てこなかった。昨年、まったく偶然に徳間の倉庫から『Bicycle in Dream』(海外版として一部別なシーンや音楽が付加されたもの)の原版が奇跡的に発見されたのだ(この発見についての松本俊夫のトークは「NFCニューズレター」65号、東京国立近代美術館フィルムセンター、2006年、に再録されている)

 それ以外にも、『映像の発見』の復刻(2005年、清流出版)、20作品を収録したDVDボックス『松本俊夫実験映像集1961-87』の発売と六本木SuperDeluxeでのライヴ・インスタレーション展、図書新聞での三面に及ぶロング・インタビュー(2006年1月14日号、聞き手は高崎俊夫)など、このところ松本俊夫再注目の動きがつづいた。こうした流れは2001年の川崎市市民ミュージアムによる「松本俊夫インタヴュー 初期作品を巡って」(同ミュージアム紀要第14集所収、2002年、聞き手は川村健一郎、江口浩、奥村賢)あたりからはじまり、松本氏をめぐる中条省平の60年代メモワール「中条省平は二度死ぬ」(『中条省平は二度死ぬ!』所収、2004年、清流出版)によっても増幅されただろう。中条省平の行き届いた序文がついた『映像の発見』につづいて復刻される本書も、こうした文脈のなかで読み直されるにふさわしい書物である。

 

 『表現の世界 芸術前衛たちとその思想(初版1967年12月、三一書房)は、1963年から67年にかけて書かれた文章が36章にまとめられ、松本俊夫の批評論集としてはもっとも広いジャンルをカヴァーしている。戦後文学論争や演劇論、写真論、美術論も含まれ、それらの関係性のなかに自らの作家的位置を見定めようとしているかにも思える。じつはこの時期、松本俊夫は難解な作家として映画・テレビ界から仕事を干され、映像作品を作れずに、文筆や演劇の演出に専念せざるをえなかった。作ることを、見ることと書くことのなかで実践していた時期ともいえ、その緊張感が本書の思考の密度を支えている一面もある。折しも「世界前衛映画祭」や「アンダーグラウンド・シネマ/日本−アメリカ」(ともに66年、草月会館ホール)などを通して、まさに新しい動きが押しよせていた時期でもあった。映画界低迷のなかでオルタナティヴな動き(独立プロ、ATG、自主制作)が活性化し、松本俊夫もその中心にいた。「いま、映画はとてつもない変貌のただなかにある。(……)商業主義的な映画館の映画が救いがたい衰退の一途をたどりつつあるさなかに、実はきわめて本質的な映画革命が、一方で着々と進行している」(「変貌する映画」「SD」1968年12月号)と彼自身書いている。

 今日本書を読みかえしてなにより驚くのは、その当時にいま現在起こりつつあったことをリアルタイムに自分の言葉で正確に把握している点である。それは何十年か後に我々が歴史的距離のなかで理解している「現代映画」の特質にほかならない。

 

 「ここでは壁のしみさえが多くを語り、濃くなり薄くなる霧もまた、デリケートな意識の空間に変貌する。望遠の映像にゆったりとフレイム・インしてくる船の無気味さ、ふと覗いた窓外にひろがるキリコのような風景……。いわゆる筋立てとは直接何の関係もない映像が積み重なって、徐々に主人公の内部世界にくいこんでいくプロセスは見事だ。」(「愛と自由は可能か」)

 

 現代という時代、現代人というものの内面をどのような物語構造や手法で捉えることができるのか。そこから現われてくる新しい映画の特質とは何なのか。そういうことを映画人がまともに考えていた時代だった。物語の複雑化も、空虚な時間や空間も、現在と過去、現実と幻想、ドキュメンタリーとフィクションといった境界の曖昧化も、引用や即興の意味の変化も、ここに明晰かつ繊細に捉えられている。それは松本俊夫が単なる批評家ではなく同時代の先鋭な作り手であったからこそなのだが、それだけでなく、時代をつかむ大きな「構え」のようなものが感じられる。

 

 「問題はなぜそのような方法が、現代にアプローチしようとする視座に据えられるかということだ。むろんその一つ一つには無視できない質のちがいがあるが、いずれも現代の重層的な構造を、現実と意識が交錯する地点から、その縫い目をたぐるようにとらえようとする共通した志向をもっている。それを論理的にも感覚的にも対象化しようとするとき、そのような映像の構築が、一つの有力な手がかりとして自覚化されてきていることを否定することはできない。」(「遅れた新しい波」)

 

 「論理的にも感覚的にも対象化する」など今日耳にしない言葉だが、いかにも松本俊夫的な言い回しで妙に懐かしい。また、「この肉眼から隠された現実を「見る」ことを抜きにして、もはや現代のリアリズムはありえない」(「現実の主体化」)といった、前著『映像の発見』から続く松本映像論の「核」ともいえる「見る」ことの今日的意味もくりかえし語られている。「素材や筋としての「何を」が、あくまでも映像として対象化された「何を」に止揚されるのは、「いかに」撮り、「いかに」つなぐかという、媒体にたいする厳しい執着の作業を通すことによってでしかない」「見る行為にせよつくる行為にせよ、この点の執拗なアプローチを抜くならば、映像表現の世界が本質的に開かれることはけっしてない。」(いずれも「自立化の意味」、下線部は原文傍点) それはまた、批評が何を見、何を扱うべきかという指摘でもあった。

 しかし松本俊夫がすごいのは、それを理論や理屈として述べるだけでなく、自身の作品、たとえば69年にATGで製作・公開された初長篇劇映画『薔薇の葬列』で、完全に消化され身体化された思想として「作品の形で」実現しえていることなのである。

 

 

 本書が当時どのように読まれたかという卑近な例として、私自身のことを少しだけ書かせていただきたい。私は高校時代の終り(69-70年ごろ)にこの『表現の世界』と『薔薇の葬列』にほぼ同時にふれ、決定的な影響を受けた。映画雑誌とはデザインも編集も違う「季刊フィルム」を読みはじめ、「芸術前衛たちとその思想」という副題にひかれて『表現の世界』を手にした私の年齢が17歳だったということが決定的だったのかもしれない(松本氏は20歳年上なので当時まだ37歳ということになる)。松本俊夫という名は多少なりとも映画に興味があれば高校生でも知っていたし、当時大学闘争に突入し政治化していた大学映研の人たちよりはるかに素朴に松本俊夫に出会ったともいえる。私は「芸術における自由」のような芸術論をもっと勉強してみたいと思い、「ごった煮の美学」のような文体でなにか書いてみたいと思ったことを覚えている。松本俊夫による感情教育を真正面から受けた私は、アンダーグラウンド映画やビデオアートへ、現代美術や現代音楽へと導かれ、やがて映像表現に関わる文筆家となったが、反スターリニズムの芸術論とか、とりわけ、松本俊夫のエピゴーネンになってはいけない(他人の言説を無批判にくりかえしてはいけない、松本俊夫さえも批判的に読まなければならない)という重要な教えも本書から得たと思っている。

 『表現の世界』と『映像の発見』をたてつづけに読んだ1970年前後から私は大学ノートに映画メモをつけはじめた。「いま何よりなすべきことは、それぞれの享受体験の論理化である。自分の眼と自分の心で見たことから、新たな発見ができないようではどうしようもない」(「批評意識の貧困」)という一節に強烈なメッセージを感じて、批評ということを意識しはじめたのだった。その後、山田宏一やアンドレ・バザンやジョナス・メカスの文章からも影響を受けたとはいえ、映画について書きはじめる出発点はまちがいなく『表現の世界』のあの一節だった(自分ではそれが『映像の発見』の一節だと長いこと思いこんでいたのだが)

 手元に残っている一番古いノートにはゴダールやパゾリーニの作品(それは当時「見なければならない」部類の映画だった)にまじって、『ifもしも…』[68,リンゼイ・アンダーソン]と『夜霧の恋人たち』[68,トリュフォー]、『かくも長き不在』[61,アンリ・コルピ]と『夜霧のしのび逢い』[63,ヴァシリス・ジョルジアディス](日本最終上映)、『...you...』[70,リチャード・ラッシュ]と『アリスのレストラン』[69,アーサー・ペン]といった名画座二本立てが含まれていて懐かしい。『戦艦ポチョムキン』や小川プロの初期作品は政治集会で上映されるというような時代だった。三島由紀夫が自決した日には『ラブド・ワン』『十月』『コレクター』という奇妙な三本立てを見ていたことがわかる(おそらくテアトル新宿で)。メモは映画より三島に向っている。それから二ヶ月映画を一本も見ていないのは、受験のためか別の理由だったか今となってはわからない——。

 

 『薔薇の葬列』をはじめて見たころは都立新宿高校に通っていて、とくに映画マニアというわけではなかったが、新宿南口という立地条件から授業よりも映画館(日活名画座、シネマ新宿、アンダーグラウンド蠍座、テアトル新宿、新宿文化、等々)やジャズ喫茶に入り浸り、10・21新宿騒乱とか西口フォークゲリラとか、日常と非日常が共存しまざりあう街で暮していた。音楽室では坂本龍一が吉本隆明の詩に即興的なピアノ演奏をつけるライヴを開き、理科室では映研の荒木純生がゴダール的で親密な修学旅行映画を上映したりしていた。『薔薇の葬列』はそんな自分の生活空間だった新宿を舞台にした映画であり、美少年の魅惑が肯定的に描かれ(フェリーニの『サテリコン』やヴィスコンティの『ベニスに死す』より先に!)、知的であると同時に感覚的で挑発的な映画だった。謎であり衝撃であり、ラディカルなものに特有の興奮。すでに表現の場から失われて久しいが、それが私の「アヴァンギャルド」の原体験となったのだった。

 最初のインパクトが強かっただけに、それが変わってほしくないという思いからあまり見直さなかった映画だったが、2005年末に本当にひさびさに再見した。映画史の連続講座でフィルムセンター[現、国立映画アーカイブ]所蔵の『薔薇の葬列』を見直したのだ。プリント状態が悪いと聞かされていたが、冒頭部以外はむしろきれいだった。久しぶりに見てびっくりした。古びるどころではない。その構成力やメタフィルム的方法ばかりでなく、今日からみると引用、パスティシュ、断片化、ディコンストラクション、自己批評と皮肉など、ポストモダニズム的とつい口走りたくもなる批評的戦略がもっとも成功し血肉化された傑作であるし、ジェンダーを越えていくゲイボーイたちの意識と身体を今日のセクシュアリティの視点から読み直せることも刺激的だった。解体しながら構成され、断片なのに一貫し、異化しながらもドラマにひきこみ感動させる。見事というほかない演出力だった。

 松本俊夫は、ジャンルを行き来するのではなく、ドキュメンタリーも劇映画も実験映画もビデオアートも、物語も非物語も、ジャンルや枠組を越えて同時に取りこむ幅広さをもつ稀有な作家である(そしてそんな映画人は彼以外に日本にはいなかった)。その全作品回顧上映が実現するならば、どういう時代にどんなことを同時に行なってきたか改めて検証できることだろう。

 

 

 松本氏と話していて、たまに話題に出るのがヤン・ネメッツという名前だった。『夜のダイヤモンド』という傑作を撮りながら、プラハの春(68年)以降、失職しやがて消息不明となったチェコ監督で、社会主義体制崩壊直後の松本作品『気配』(90年)でもふれられていた。

 プラハの春直後とビロード革命(89年)へ至る長い抵抗の時期に、マルタ・クビショヴァの歌う「ヘイ・ジュード」(チェコ語カバー)と「マルタの祈り」が抵抗のシンボルになったことを取り上げた2000年のNHK BSドキュメンタリー「世紀を刻んだ歌  ヘイ・ジュード  革命のシンボルになった名曲」(2014/12/14にもNHK総合でNHKアーカイブス「冷戦終結25年  ヘイジュード  自由への歌」として解説付きで放映された)で、彼女の当時の夫がヤン・ネメッツであり、彼がソ連軍のプラハ侵攻の映像を逸早く国外に持ち出し世界に知らせたこと、その後ネメッツは74年に亡命しマルタとは離婚したこと、現在も映画作家として活動していることを私ははじめて知った(追記:ヤン・ネメッツはドイツ、パリ、オランダ、スウェーデンを経て米国に12年暮らし、89年以降チェコに帰国。2016年3月18日に79才で死去した)

 ヤン・ネメッツが個人的に辿ったこの世界史的激変のなかに、松本俊夫を含む20世紀後半の芸術表現もあったのだ。「現在「プラハ」を目指しながら、けっして「プラハ」に辿りつけずにいるお先真暗の私たち自身」という視点から書かれた本書のネメッツ論「遅れた新しい波」(「映画評論」67年1月号掲載)をこの現在から読みかえすとき、20世紀という時代の二重三重のねじれと逆説がひしひしと伝わり、感慨を禁じえない。

 

 松本俊夫もまた、一貫して既成の映画界の外に身をおきながら、60年代に映画(とりわけ日本映画)に何が起こったのかを身をもって生きた貴重な証人である。本書は、アヴァンギャルドやアンダーグラウンド映画を含めこの作家が1960年代半ばに経験したことの結晶にほかならない。

 

ⓒ西嶋憲生