『アンモナイトのささやきを聞いた』再訪──夢の断片フラグマン夢の印象(2022)

 

 

(本稿は、山田勇男の最初の劇場用映画「アンモナイトのささやきを聞いた」が30周年記念としてデジタル化されDVD発売された際のDVD BOOK(記念パンフレット)『アンモナイトのささやきを聞いた 1992-2022-∞』<発行 YHI, 販売 虹霓社, 2023.1, 限定300部>の寄稿原稿として執筆、掲載された。)

 

「アンモナイトのささやきを聞いた」デジタル化+30周年記念本プロジェクトに関する映画ナタリーの記事。

https://natalie.mu/eiga/news/504033

 

※虹霓社(こうげいしゃ)からは山田勇男作品のDVDが多数発売されています。

 

 

 

 

『アンモナイトのささやきを聞いた』再訪──夢の断片(フラグマン)夢の印象

 

 『アンモナイトのささやきを聞いた』を久しぶりに見た。1カット1カット覚えているのだが、同時に不思議なノスタルジアに襲われた。こんな映画をいま作ることはできまいという感慨。録音スタジオで初めて聴いて鳥肌が立ったが今なお素晴しいサイモン・ターナーの音楽。なぜか編集に関わってくれた巨匠浦岡敬一(1930-2008)。そして何より、作者と同い年の私はかつて青年の私(サエキけんぞう)とその妹(石丸ひろ子)を中心に見ていたが、今は老人の側に視点を移して見ていることに気づく。劇中で主人公は「僕は年老いた僕を夢見た」と語るが、美術家 一原有徳(1910-2010)が演じた老人こそ夢見る主体に思えてくるのだった。

 

 本作は山田勇男という稀有な幻想作家に劇場用長編を作らせたいという周囲の無謀な夢から始まった。ふつうの劇映画ではなく、彼が8ミリや16ミリで作ってきた世界をそのまま劇場用映画にできないか。その企画にミニシアター時代の旗頭であったユーロスペースの堀越謙三代表が興味を示し、のちにカラックスやシュミットら海外作家の映画製作も手がける同社の「第一回製作作品」となったのだった。CRESCENT CORPORATION/ ISHIWAKI TRADING CO. PRESENTSと映画冒頭に出るが、そのオーナー石脇理男さんが実質的な出資者だった。本人が固辞されエンドクレジット等に名前はないが、その経緯は堀越氏のメモワール『インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ』(筑摩書房)の第12章に詳しい。

 ダイアローグがほとんどなく画面の外から心の声のようにモノローグが聞こえるこの映画は、通常の劇映画とはスタイルが極端に異なり、一種のパフォーマンス・フィルムともいえる。カンヌ国際映画祭批評家週間(長編1,2作目の若い才能を発見すべくフランス映画批評家組合が1962年創設)にセレクトされ山田監督も参加した。当時最盛期のミニシアターにはこうした映画を受容する素養や感受性を持つ観客(デレク・ジャーマンやダニエル・シュミットを愛好するような)が一定数いたのだ。

 

 主人公の「私」は少年/青年/老人と三重化され、その過去/現在/未来(あるいは大過去/過去/現在)は時系列ではなく同じ空間に共存し、すれ違う(大黒座での複雑に入れ子化・多重化された鈴木翁二「ボタン」の幻灯上映にも似て)。当時「この映画は時間が進まない」と言った知り合いの映画評論家がいたが、確かユング派の心理学者は夢に時間はなく空間だけがあると書いていた。この映画はまさに空間の中で記憶や幻想が去来し、ストーリーを追うのでなく作者が並べた豊かなイメジャリー(夢の断片)をともに夢見る映画なのだった。

 

 だがこの特異な映画のイメージと物語は、一体どのように練り上げられていったのか? 本作の企画に関わった関係で、脚本の第一稿から撮影台本に近い十稿までのコピー(八稿まで手書き)が私の手元にあり、読み返すとさながら夢の錬金術を見る思いだ。

 第一稿(1990.1.20→2.23)と二稿(3.26→4.5)は「夢の國(メランコリア)」と題され、三稿は「アウローラの焰」(末尾に1990.5.1.p.m.3:50)、以下「月の青い水」「シルエット」「夢を見る場所」「幻の物質の恋」「睡りの素顔」等と変わっていく。場面もその都度加えられ削られ並べ替えられたが、夢の中の私と妹、子供時代の私と妹、老人そして母といった人物は変わらない。

 第一稿は冒頭に野尻抱影『星三百六十五夜』の引用(星座のモチーフは最後まで残る)、プラネタリウムの少年と少女から始まり、黒い森の夜道で老人がおしっこをすると「鏡のような水たまり」が出来て、それが不思議な謎の泉となった。映画の台本というよりまるで夢の自動筆記の趣き。最後に海辺の巨大なアンモナイトも現われ「火の神の聖域の廃墟は火によって滅ぼされた」とボルヘス『円環の廃墟』が引用され、光の点描画(星座)で終わった。妹の名はYURI。二稿にはMAYUMEとYURIと兄の名もあり三稿では「ますみ」、本編では「ひろ子」(女優の名)となっていた。

 三稿(仮題の"アウローラ"は曙の女神)から六稿ぐらいは、あけぼの商店街の朝(老人が水を撒く)で始まりその夕方で終わる。四稿には図版(バーン=ジョーンズ「眠り姫」、コクトー「詩人の血」、タトリンの螺旋の塔、ポール・デルヴォーの裸婦、鈴木翁二?)も付き、タルホや中勘助「妹の死」の引用もあった。八稿九稿(ともに1990.10)はほぼ決定稿に近いが、ラストはクリスマスにマッチで蝋燭を灯し、私と妹が踊り出し「画面も次第に円舞しはじめる。ふたりの顔がくるりくるりと回っている」となっている。

 それは内面告白や内的体験の表出とは違った、夢の地図もしくは夢の小函のオブジェを拡大鏡で順次アップにした足跡の如きものだった。「うつらうつら派 映画注」という覚書では「天体望遠鏡、星座、水たまりは、巨視効果を起こす役割」「空間認識に眩暈を関与する非日常への上下転倒ともいうべきオブジェ」とされ「模型、あるいは擬景夜景としてのオブジェ感覚もまた、眩暈、常識を狂わせる役目」と説明される。鉱石、アンモナイト、螺旋を語った後、「螺旋(アンモナイト)と森の融合が、永遠(海)のオブジェに辿り着く」と記されていた。

 こうした夢の断片(フラグマン)()たるオブジェは、その時々の心の動きで形を変え、コラージュされ象嵌され束の間大きな"印象"を醸し出しては消失する。すべては瞬時の夢まぼろし。夢の人物は夢見る人の分身といわれるが、この映画もその脚本も夢想の場にほかならず、まさに"夢の中の人物"たる山田勇男そのものなのだ。

 

我々は夢と同じ糸で織られている。我々の儚い人生は眠りに包まれているのだ。

──シェイクスピア『テンペスト』第4幕

 

ⓒ西嶋憲生

 

(付記)新作「飾畫(イルミナシオン)」について

 「飾畫(イルミナシオン)」(23, 7')はパリでの個展の際にループ上映用に作られた作品で、2015-23の作者自身の姿とパリやフランス各地(ランボーの生地シャルルヴィルを含む)の断片的風景、ランボーの大判の本、等々が短いショットで織り交ぜられている。撮影には遠藤彰の名もあり作者自身ではない撮影がある模様(編集も?)。

 最初と何度か出てくる弧状の野外スクリーンは、リヨンのリュミエール研究所近くのものに似ていた。フランスの町、線路、カラーになってランボーの本、ボケた光と色。幻想というより"幻覚的" hallucination。自身で撮った8ミリも混ざっている。カメラを持った老いたランボー。自分を撮ったイメージ。窓の外が赤っぽい部屋。後半はマッチが何度も灯される。ポンヌフのような橋上で寝ている姿。どこかのフランスの町、市電が走る(居住しているナンシーの町か?)。マッチの火と自分の姿。特に夜景の町に列車の音、手前のマッチの炎、近づくと作者の顔、そこに字幕「「私」とはもうひとりの他者である ランボオ JE EST UN[E]  AUTRE   RiMBAUD」。その紙に手の影、「飾畫 LES ILLUMINATIONS」文字に影。コクトー的なサイン Yamavicaで終わる。

 異国であると同時に馴染み深い、不思議な情景。

 山田勇男は、形式や様式の作家ではなく、心情の作家であろう。宮澤賢治や寺山修司からランボーへと至る心情。

 フィルムの感触は若々しい感じ、繰り返し見てみたい作品。

(2023/7/16  代沢ラ・カメラにて)

 

2023年 監督:山田勇男  撮影:山田勇男/遠藤彰  音楽:サイモン・F・ターナー  音響/録音:藤口諒太

提供:ザ・フィルムギャラリー(パリ) https://www.film-gallery.org

"Les Illuminations"  Director: Isao Yamada  Cinematographer: Isao Yamada/Akira Endo

Music: Simon Fisher Turner  Sound&Recording: Ryota Fujiguchi  Courtesy : The Film Gallery (Paris) 

Original size : 7min, colour+B&W, 16㎜   ©Yamavica Film