孤独にして倫理的──ジェイムズ・ベニングのスタンスとまなざし

 

(本稿は、2023年10月7日-13日にシアター・イメージフォーラムで開催された特集上映「ジェイムズ・ベニング2023 アメリカ/時間/風景」<主催コピアポア・フィルム、ダゲレオ出版>の劇場用リーフレットのために書かれた文章である。[ ]内は追記)

 

 

 ジェイムズ・ベニング(以下JB)は驚嘆すべき映画作家である。彼の映画を見終わるとマジックのような不思議な気分にさせられる。なぜこういう映画に引き込まれ見てしまうのか、どこにその謎が隠されているのかと。デジタルで撮られた『ステンプル・パス』(12)など1カット30分で同じカメラポジションの四季の4カットのみという極端さだ。連続爆弾犯ユナボマー(テッド・カジンスキー)の小屋を山中に再現したこの長回し映画を我々は見続けてしまう。日記やマニフェスト、犯行メモなどを読む声が各パート10-15分入り、そこにいた不在の人物も想像させる。カジンスキーはJBと同年生まれの数学者だった。

 

 JBは1942年、中西部ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ[ウィスコンシン州は五大湖地域にあり、政治的には共和党・民主党が拮抗し大統領選の勝敗を決する州。過去にオバマが2回勝利し、トランプは僅差で勝利した]。労働者家庭に育ち、野球の奨学金でウィスコンシン大学で大学院まで数学を専攻、1960年代の公民権運動にも参加。ベトナム戦争の兵役猶予のため大学院を休学し貧民教育ボランティアへ。68年8ミリBolexカメラを買い撮影を始め、70年頃からは16ミリBolexに。同大学大学院の美術コースに入り75年に美術修士(映画)を取得した[フォルマリズムの映画理論家デヴィッド・ボードウェル(1947-2024.2.29/ 74年にアイオワ大学でPh.D取得)に学び、ずっと親しい間柄だったという]。いくつかの大学を経て87年からカリフォルニア芸術大学(CalArts)で教鞭をとり「数学としての芸術」「聞くことと見ること」といった授業を持つ。2007年シエラネバダ山中にヘンリー・D・ソローが住んだウォールデンの小屋のレプリカを建造、ヴァルヴェルデの自宅かそこで過ごすという。2009年からはSony EX3でデジタル制作に移行した。娘のセディ(Sadie Benning, 1973-)は父にもらったPixelvision(おもちゃの白黒ビデオカメラ)で15歳から作り始め、映像作家となった。

 JBの映画はただの風景ではなく中西部や各地の "アメリカの風景" であり『The United States of America(アメリカ合衆国)』という作品も2本ある[1975年版は車のフロントガラス越しに諸州を旅した27分の作品、2022年版は各州1地点ずつ各2分の固定ショットで州名ABC順に並べた98分の作品]。国外はドイツのルール地方で撮ったデジタル第1作『Ruhr』(09)など例外的だ。JBと生年が近い実験映画作家にはジョージ・クチャー(1942-2011)、アーニー・ゲア(1941-)、トニー・コンラッド(1940-2016)、ポール・シャリッツ(1943-93)ら、国外ではパトリック・ボカノウスキ(1943-)、ビルギット・ハイン(1942-2023)、マルコム・ルグライス(1940-)、かわなかのぶひろ(1941-)等がいる。映画監督ではマーティン・スコセッシ、ピーター・グリーナウェイ、デレク・ジャーマン(1942-94)、ミヒャエル・ハネケ、ヴェルナー・ヘルツォークらが同年生まれである。

 

 JBの映画にはふつう説明もナレーションも入らない。主人公の人物もなく物語も事件もない風景ばかりのミニマルな映画、気付けば90分とか2時間が過ぎ、もっと見ていたいと思わせる。"スローシネマ"とも呼ばれるその独特な時空間の中で観客は見つめ耳を澄ます。1カット1カットは地平線・水平線の位置を見てもわかるように厳密な構図と繊細な現実音で構築され、そこに時間と音と細部があるので写真ではなく"映画的"な時間と空間とサスペンスが生まれるのだ。

 カリフォルニア・トリロジー(3部作)の『セントラル・ヴァレー』『ロス』『ソゴビ』(1999-2002)は、いずれも16ミリの100フィートフィルム一巻を固定カメラ長回しで撮った1カット2.5分×35カットで構成され約90分だった。1カットの長さは次第に心地よくなり、カット変わりの画面変化も意外性があり画面外からはいろんなものがフレームに入ってくる。100フィートフィルムのフィックス長回しは初期ウォーホル映画の方法だったが、アンディ・ウォーホルの機械的なカメラの視線と違いJBには人間的まなざしがある。それはアウトサイダーのような没入しない視線でもあり、画面にはそのスタンスやポジションが明らかで、それが作者の思考をも伝えている。

 

Allensworth,2022

 

 固定カメラで撮った無人風景が特徴的だが、『セントラル・ヴァレー』に出てくるロデオの女性二人のようにたまに人物も現れる。『アレンズワース』(22, 新型コロナ期間に撮影された1本)は1月-12月の5分×12カットからなり家・教会・学校などを淡々と写し続けるが、8月に突然、黒人少女が膝上ショットで教室の黒板前に現われ詩を読み始める。画面も印象的だが、それ以上にルシール・クリフトン(1936-2010)の詩の内容がこのゴーストタウン(アフリカ系アメリカ人住民の町)の記憶を呼び起こす。エンドクレジットに出てくる1枚の写真は公民権活動家エリザベス・エックフォードで、"リトルロックの9人"の一人として白人ばかりの高校に入学許可され登校初日に群衆に追い返された時の写真、先の少女が着ていた服はその時のエックフォードの服のレプリカだった。JBの映画で人物ショットはいつも特別な意味を纏っている。

(追記)『Twenty Cigarettes』(2011, 98分)のようにさまざまな土地(バンコク、フィリピン、ソウル、メキシコを含む)で20人のタバコを吸う人物だけを撮った作品もある(シャロン・ロックハートやスーザン・ピットらの映像作家も出演)。ウォーホルの『スクリーンテスト』より表情や変化のあるポートレイト。

 

 初長編『11×14』(77)では中西部の風景の中に男、女、初老の男、青年など物語的な人物が登場したが「物語は映画の形式に呑み込まれ、食い尽くされる」(JB)。電車からの風景(人物は黒いシルエット)は10分も続き、横移動やカメラのパンまであった。人物と自動車、列車、飛行機、牛などに、道路沿いの巨大広告、映画館(『王になろうとした男』)、工場、モーテル。ベッドの女性2人と壁の写真、そしてその家。台詞もなく物語はほぼ進展しないが "演出" は随所にある。その映画のありようはシャンタル・アケルマンや初期ヴェンダース(『アラバマ-2000光年』69『都市の夏』71あたり)と通じるようにも思えた。

 アケルマンの代表作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(75)は英国映画協会(BFI)の映画雑誌"Sight & Sound"が10年おきに行う映画史上の名作アンケート2022で1位となった。前回1位がアルフレッド・ヒッチコック『めまい』、その前が小津安二郎『東京物語』だったから大変動だ。アンケートの選者(批評家、キュレーター、監督)は順位なしで10本選び集計するが、JBも選者の一人だった。「たくさんの映画を見てはいないので自作に限った」として年代の近い順に、アレンズワース/ two moons/ L.Cohen/ Ash 01/ ステンプル・パス/ Ruhr/ RR/ Four Corners/ ランドスケープ・スーサイド/ 11×14 を選出、これも彼の姿勢の一つだろう。実験映画の研究者スコット・マクドナルド[何度もJBにインタビューしたりベニング論を書いている]は『13 Lakes』(05,10分×13)を10本の一つに選んでいた。

(追記)『L. Cohen』(2017, 45分)は多分1カットでオレゴンの田舎の風景を撮っていて、途中で日食で暗くなり、後半でレナード・コーエンの歌が入る作品。

 

 1960年代後半から実験映画の中で風景を撮る作品が増えたのは、コンセプチュアルな方法に基く「構造映画」の台頭と関係があろうが、同時代の現代美術におけるランドアート(アースワークス)やサイト・スペシフィック(特定の場所)といった問題意識とも呼応して見えた。[飛行機事故で早世した]美術家ロバート・スミッソン(1938-73)へのオマージュとして作られた『キャスティング・ア・グランス』(07,タイトルはスミッソンの言葉から)はその点でも興味深い。ユタ州グレートソルト湖に1970年に作られたスミッソンの「スパイラル・ジェティ(螺旋形の突堤)」は自然の中に介入しやがて自然の一部となった伝説的ランドアートだが、岩は塩で白く覆われ、長く水面下に沈み2000年代に再び姿を表した。JBは2005-07年に16回訪れ、さまざまな季節・時間・水位で16ミリ撮影。長年の水位変化を調べ上げ1970-2007年の日付を虚構的に付け1分×76カットの映像と音(水音、雁の声、軍用機、雷鳴など)で37年の推移を"再現"した。水面の色が次々と変化するフィクショナルな構成のドキュメントだ。

 

 ジェイムズ・ベニングが作品を通して堅持してきた風景とのスタンスとまなざしは、孤独なものであると同時に倫理性や社会性を含むものだった。そしてそれこそが彼を客観的にしてパーソナルなものを両立させうる稀有な存在にしているのである。

 

ⓒ西嶋憲生