波多野哲朗  批判的かつ自己韜晦的な思索家

 

(本稿は「キネマ旬報」2021年2月下旬号[ベストテン発表特別号]に「追悼2020」の一つとして掲載された。見出しには「波多野哲朗 映画評論家/ 東京造形大学名誉教授 1936年3月15日-2020年10月2日」とある。[ ]内は再録時に補記)

 

 波多野哲朗さんが昨年[2020年]10月2日に亡くなられた。最近まで上映会などで元気な姿を見かけていたので訃報には少し驚いた。新聞の肩書きは「映像評論家、東京造形大名誉教授」だった。年下の者にも丁寧に謙虚に接する方だったが、その批評からは、他者の論に安易に与せず自らの思考を巡らせる批判的かつ自己韜晦的な思索家とも思われた。

 吉田喜重監督[1933-2022]と同郷の福井市に1936年に生まれ、少年期に大変な戦禍と戦後復興を経験され、大阪外国語大学ではロシア語科でチェーホフを学び演劇にも打ち込んだという。演劇部の後輩だった山根貞男氏[1939-2023]とは後に東京で再会し伝説的な映画批評誌「シネマ69」(のち70、71と改称し全9号刊行)を編集・発行、また批評史的に画期的な『現代日本映画論大系 1-6』(70-72年、冬樹社[編集委員会代表は小川徹])も共に編集することになる。

 文学や演劇に興味があった氏が映画と関わるきっかけは、新日本文学会の勉強会で松本俊夫と出会ったことや1960年代半ばに先鋭な文化発信拠点だった草月アートセンターに入って様々な企画に携わり、同センター主宰の勅使河原宏の『他人の顔』(66年)などの現場で製作助手等をしたことだった[クレジットはなし]。

 アメリカ実験映画の最初の翻訳文献『アンダーグラウンド映画』(69年、三一書房)の訳者として波多野哲朗という名を知り、1970年代の「美術手帖」に寄稿された映画評も私は読んでいた。「美術手帖」版元の美術出版社で氏が編者の一人だった『新映画事典』(80年)が初の依頼原稿、岩本憲児氏と共同編集の『映画理論集成』(82年、フィルムアート社)に初の翻訳、東京造形大が初の非常勤と、個人的にも節目でいろいろお世話になった。

 波多野さんの人生は多面的で、造形大や日大芸術学部での映像教育(造形大の教え子には、筒井武文、諏訪敦彦、犬童一心、矢口史靖、山村浩二、辻直之ら映画監督やアニメーション作家も多数)や会長も務めた日本映像学会から、カラコルム登山隊の撮影班や大型バイクでシベリア大陸横断[世界初とのこと]など冒険家的側面、晩年に監督した沖縄からキューバへ移民した数世代を追うドキュメンタリー『サルサとチャンプルー』(07年)まで、多彩でアクティブだった。

 「 "知的な観客" を全否定してはいけない。なぜなら、彼らの中には(略)アッケラカンと楽しんでしまった映画について "知的に考える観客" が含まれているからだ。そしてじつはこの観客が批評への道を拓くからである」(「美術手帖」1971年4月号)

 といった波多野さんの論考はもっと読み直されるべきだと思う。

 

(追記)波多野哲朗氏については、映像実験誌「Fs(エフズ)」第2号(1993, Fs編集部発行)で「映画批評誌『シネマ69』とその時代」というロング・インタビューを1992年12月に行ったことがある(pp.79-86、文末に「シネマ69-71」全号の主な目次も収録)。