【翻訳】アンリ・アルカン「夜の光」

 

(本稿は未発表の翻訳で、おそらく本ブログに再録した「夜景論〜夜の映画史のために〜」(1991)と関連し1991年頃自分の研究用に訳しデータが残ったものと思われる。出典はアンリ・アルカン著『光たちと影たち』[Henri Alekan, Des Lumières et des Ombres, Nouvelle édition, La Librairie du Collectionneur], 1991, pp.89-103. )

 

アンリ・アルカン(1909-2001)はフランスを代表する撮影監督の一人。サイレント時代にパリのビヤンクール撮影所に撮影助手として入り、1930年代後半に撮影監督として独立するが、ナチスから逃れてきたオイゲン・シュフタン(ポーランド系ユダヤ人)のオペレーターとして『おかしなドラマ』37『霧の波止場』38などマルセル・カルネ作品にも関わる。ユダヤ人なのでナチス占領期は南仏でレジスタンス側の反ナチ映画を撮り、戦時下に設立されたIDHEC(イデック, 映画高等学院)の創設メンバー。戦後、R・クレマン『鉄路の闘い』45『海の牙』46、J・コクトー『美女と野獣』46で名声を得、その後フランス映画のみならず『ローマの休日』53『真夜中へ5哩』62『トリプルクロス』66『レッド・サン』71などの国際合作や『アンナ・カレニナ』48『トプカピ』64『レディL』65『悪のシンフォニー』66など英米映画にも参加。100本以上の劇映画を撮影、50本ほどのドキュメンタリー・TV映画も撮影(監督も)。

80年代以降はJ・ロージー『鱒』82, ヴェンダース『ことの次第』82『ベルリン・天使の詩』87, R・ルイス『Le Territoire』81『Het dak van de walvis(On Top of the Whale)』82, ロブ=グリエ『囚われの美女』83, ストローブ=ユイレ『アン・ラシャシャン』82『セザンヌ』89等を手がけ、A・ギタイ『ベルリン・エルサレム』89『ゴーレム、さまよえる魂』92『Golem, le jardin pétrifié』93が晩年の作品。

 

 

夜の光の心理学

 

 先に我々は、原始人が太陽の光をどのように知覚したか、そしてなぜ数千年にもわたって我々を浸すこの「太陽の浸透」を世代から世代へ文明の蓄積にもかかわらず同じ強さで、ほとんど同じ意味で追い求め伝えてきたかを説明しようとした。

 「最初の人類にとって、日の出は人間精神に従属と無力と希望と喜びと超越的力への信仰の感情(全ての知の源でありあらゆる宗教の起源である)を目覚めさせた」(『太陽の大いなる書』)とするなら、闇と夜が徐々に到来することは、見る感覚を人が失っていくことであり、議論の余地なく超自然的なものの徴であった。自分の最も貴重な感覚を奪われた人間は、そこで夜を現出しうる制御できぬ敵意ある力の虜となった。闇は危険、リスク、恐怖などの同義語だ。暗黒の中で人はこの世の権限を失い、自らの弱さや無力を意識する。夜とは捉え難い時空間だ。黒によるその造形的表象(再現)は、人間の不安の激烈な発作を呈するヴァルール(色価)だ。

 影、半影(薄暗がり)、暗黒の重要性、そしてその心的意味は、(直感的比率で)明るい色彩と併置されたグレーから黒へ至る段階的色調で絵画的・映画的に表現される。このコントラストの戯れは古来からの対立、すなわち、善と悪の、幸福と不幸の、喜びと苦しみの対立の「造形的等価物」にすぎない。それは、強度と密度の調合により物質化され、表面と量塊に分割され、明るさと暗さ、光と影から作り出されるのだ。

 

夜のナチュラル・ライティングと恣意的ライティング

 

 夜間のライティングは2種に分けることができる。月の明りと混合的な明り(人工照明の「効果」が月の光と干渉する)である。月の光が完全に欠如する場合(いわゆる「闇夜」)については考えない。なぜなら、映画人と同様、美術家も視覚的イメージを生みえないほどの光の欠如は一度として描いたことがないからだ。(もっとも、人間の目には見えないが、暗がりに置かれたものを写すのに赤外線を利用する写真家や映画人はいる。しかしそれは我々の主題には入らない。)

 「恣意的ライティング」という言葉で我々が理解するのは、方向的な論理と無関係に介入してくる一つあるいは複数の光源による照明すべてである。

 恣意的ライティングが想像力ないしファンタジーの規則にしか従わぬのは明らかである。それは既知の慣習的な世界に何らの照合対象も持たない。

 恣意的ライティングはあてどない[道に迷った、混乱した]ライティングである。それはもはや体験や理性に依拠しないからだ。

 

月の光

 

 地球から見た月の明りが月の表面に反射した太陽光によるものであることを我々は知っている。満月と明るい空によって生じる光は、それがいかに人間の目に十分な映像を見せるにせよ、1/10ルクスにすぎない。

 したがって、この月だけの照明で映像を記録するには、きわめて明るいレンズを装着し、高感度のフィルム的・電気的支えを使った特殊なテクニックで実現するしかない。

 我々のテクニックの現状では、何の適切な技術もなしの「月夜の効果」の撮影は専門家に任せることになる。

 「月光効果」に取り組む絵画や映画の芸術家は、人間の目が生理学的かつ心理学的に提供する解釈と向き合うことになる。

 

夜の混合ライティング

 

 風景は月光によっていかに照明されるのか?

 空間を横切っていく月の軌道は、太陽に対しまた我々観察者に対し、東から西へと動き、それに従って太陽の光と同様にさまざまな角度で投影された影を曇り具合に応じた濃さで作り出す。しかし注目すべきは、大気が作り出す巨大な反射スクリーンにより暗さ[不透明さ]の中にもある種の透明さをもった影や半影を生む昼の光とは逆に、月の光は濃く不透明な影を作り、暗い空はその微弱な光を一切反射することがない点である。

 月に雲がかかると、太陽の場合と同様、雲の進路と風の具合で光が強くなったり弱まったり途切れたりしてその波動するような効果の結果として変調した光のゾーンが生れる。 他方、前章で見た夕暮れの場合と同様、月の光では不十分な人間の目は色を記録することができない。そこに見えるのはほとんどモノクロームの風景だ。ただ「ヴァルール(色価)」だけが色のついた諸要素を区別させるが、それは諧調がほとんど消えた暗いトーンの表面から翻訳されたものである。影や半影は、昼の光の場合と同様、もはや色がついたものとは知覚されない。

 したがって、映画人は月光効果のみかけを生み出すテクニックによって自らのパレットを切りつめ限定する。全体の中の風景の映像は3つのヴァルールに限定される。空、風景の広がり、地面である。

 人工光の束[流出]で引き立たされた柔らかい月光の中に同時に溶け込んでいる風景を見ることも珍しくない。田舎の風景、道路、港、街灯のある街路などは、月のブルートーンの統一性を種々の位置からの異なる質の光源の干渉で壊すのに十分だ。

 そうした混合状態では2種のライティングが並置され、また自然(月光)と人工の間を揺れ動く対立した効果を平行的に演じる。この2つのライティングはいくつかの面で展開し対立する。色彩、強さ(濃さ)、方向性、動きやすさといった面である。

 月光は「ブルーっぽく見える」が、人工光は色に関しては使われるテクニックによって制約があるだけだ。一般的に人工光は月光より暖かく見えるといわれる。

 月光はきわめて弱い光だが、人工光は比較的強い光である。

 結局、そして非常に重要なことは、月光は太陽と同じく一方向的directifで自らの夜の行程に従って動くのに対し、人工光は単一か複数か多方向的でその位置は人間が決めているということである。

 その結果は、月光と人工光という対立する2つの力の戦いである。一方は連続性、静けさ、簡潔さ、メランコリー、ポエジー、冷たさ、死を象徴し、他方は生命感、複雑さ、不安定さ、物質性、暖かさ、生命を象徴する。こうした光の複合の中にこそ多くの画家は、そしてずっと稀だが映画作家も自らを表現してきたのだ。

 ヴァン・ゴッホは色彩のアプリケというきわめて特異でまたじつに彼好みな形でこの混合ライティングの一例を見せてくれる。星が瞬く十字路の夜がカフェの明りで荒々しく照らされるのだ。夜空の青さと街灯の暖かい光の対立が、遠近法も盛上げも使わずに、驚くべき奥行の感覚を作り出す。すべては影と光を生む寒暖のトーンの並置と対立であり色彩の戯れである。画布全体に強い振動が行き渡り、今にもカフェのテラスでの会話のざわめきや散歩者の足音、敷石を打つ辻馬車の馬の蹄の音が聞こえてきそうなほど息づいている。向こうでは地方の熱い夜にセミの声も響く。

 ルネ・マグリットも『光の帝国』で混合ライティングの素晴らしい実例を見せてくれる。ここでは月夜でなく夜が近づく一時、しかもさまざまな色彩の黄昏の空といった誇張は一切ない。彼は昼の空の奥底に夜の効果を「メッキ」するのだ。その食違いぶりは、自然なものと非合理なものの断絶から生じる見慣れぬ非慣習的なもので我々を困らせ混乱させ、同時に魅惑する。この水辺の家は強い矛盾した力のもとにある。室内に置かれた人工的な光は茶色っぽい反射を投げかけ、一方奇妙な街灯は建物により冷たい光源からの輝きを投射し、その多様な効果が水にきらめく。木々は輪郭をシルエットにして奥行を生み、たくさんの軽い積雲が風で流されている。目はたえず雨戸を閉ざしたこの住居を眺め、二つの窓だけが光によって不思議に動かされ、一つの視線のように伸びている。そして軽い(薄い)雲の方へ動いていき、再び謎めいた街灯、我々の脳の機能の活動的な中心、で止まる。それが引き付ける力があまりに強いので人はこの作品に囚われたように感じる。

 おそらく、昼、夜、人工という3つの光の要素が、この絵画的魔術に大きな関わりを持っているのである。 (了)