VALISを待ちながら——映画とサブリミナル (1995)

 

(本稿は映像文化研究誌「CINEMA101」創刊準備号(1995年8月、映像文化連絡協議会)に掲載された。同誌は映画生誕100年の年に映画研究者/批評家の村山匡一郎・出口丈人の両氏が発行人となって刊行された映画研究誌で、1995-96年に本号含め4号が発行された。)

 

 

 

注意深く見るとその映画には表面上何の意味もないことがわかった。閾下と閾上の手がかりを拾い集めそれをまとめあげぬ限り何の意味もつかめないのだ。だがその手がかりは意識がとらえて意味を考えようと考えまいと観客の頭に入り込む。観客に選択権はない。エネルギーもしくは情報を変換するものと、事実上まったく受動的な観客という関係。

——フィリップ・K・ディック『ヴァリス』1981

 

 

 例のオウム真理教騒動(注・1995年3月のいわゆる地下鉄サリン事件とその後の強制捜査、教祖麻原はじめ犯行に関わった幹部の逮捕)のさなか、解読の合言葉となった「マインド・コントロール」と二重写しになって注目された「サブリミナル」。具体的な事例は貧弱で(数年前のアニメで瞬間的に麻原の顔を挿入、TBS報道番組でオウム幹部・村井秀夫刺殺事件ドキュメント映像にユダや上祐の顔を瞬間的に挿入)どちらも遊び感覚が強く効果の有無も曖昧だったにもかかわらず、気付かれずに人の心に入り込む「見えない恐怖」としてメディアはこぞって取り上げ、一時コラムニストの格好の話題となった(NHKでさえ複数の番組やニュースで扱った)。

 こうした手法は映画ではコマ単位の編集、ビデオではフレーム単位の編集としてよく知られ、珍しくはないものに思える。キャメラマン・映画編集者・映像作家などコマに敏感な人々はたとえ1コマでも異物的イメージが挿入されれば(その内容を知覚できない場合でも)何かがそこにあった程度には気付く。報道番組でのフレーム編集は倫理問題化したが、表現手法としての「手のこんだ編集」としてならCMで頻繁に使われているものだ。

 1コマずつ画像が変わる実験映画は50−60年代に多い。240の異なるコマによる10秒間をループにしたロバート・ブリア『イメージ・バイ・イメージⅠ』(54年)を始め、ペーター・クーベルカのコマ単位のフリッカー的作品や見る度に異なった像が見えるという『我らのアフリカの旅』(61−66年、12分30秒)、トニー・コンラッドが透明と黒のコマだけで作った『フリッカー』(66年、30分)、ポール・シャリッツ(93年7月急死)がカラーフリッカーの中に瞬間的画像を挿入した『N:O:T:H:I:N:G』

『T,O,U,C,H,I,N,G』(68年)、般若心経の文字やマンダラを数コマ単位で編集した松本俊夫『色即是空』(75年)など例に事欠かない。80年代にドイツのビデオアーティストが無数の人の顔をコマ単位で重複し、そのアイデアをゴドリー&クレームのビデオクリップが盗用後、ごく最近の日本のCMに再盗用された例もある。

 

ポール・シャリッツ『T,O,U,C,H,I,N,G』のコマ単位の映像

 

 古くはアベル・ガンスの『鉄路の白薔薇』(21−24年)の列車衝突シーンのフラッシュ・モンタージュや『ナポレオン』(25−27年)があるし、丸やビンの早い交替にタイプライターが1コマ入ったりするフェルナン・レジェ『バレエ・メカニック』(24年)、ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』(29年)等、20年代アヴァンギャルドでの激しい加速モンタージュはこの分野のパイオニアだ。

 だが今日のマスコミが関心を持つのはどうやらそんな「視覚的」表現手法(それは「目に見える」から視覚的なのだが)ではなく、見たという知覚すら超えて人の無意識に入り込む「操作」の意図性と無防備な視聴者という組合せの方だったようだ。

 たしかに毎秒24コマの1コマなら知覚できても、そのコマが1/3000秒とか1/10000秒だったらどうか。六本木のNAC映像技術展示ホールには毎秒10000コマの高速度キャメラと分析映写機があったが、そういう知覚不能な短い一瞬に何かの画像や言葉を入れたとき人間は意識を超えた部分で反応するはずだという仮説がサブリミナル論の本質なのだ。似たことは可聴帯域(20−20000Hz)以下以上の音についても言われる。20000Hz以上の高周波は聞こえないのでCDでは予めカットされているが、50000Hzまで再生可能なLPレコードではその聞こえない音がハイパーソニック・イフェクトとしてα波をより多く発生させ聞き手をリラックスさせるといった研究(大橋力らの実験)がある。

 サブリミナル(subliminal)という言葉自体は古くから心理学用語として存在し、心理学事典など覗いてみれば必ず記述がある。「閾上」(supraliminal)に対する「閾下」を意味する言葉として「閾下学習」「閾下刺激」などが説明されているはずだ。識閾の外で何かを感じたり学習してしまうのがサブリミナルとすれば、もともと無意識的に見るよう作られている劇映画のさまざまな構成要素もサブリミナルと言えるかもしれない(クレショフの有名な実験やエイゼンシュテインの「共感覚」もサブリミナルとつながりうる)。

 だが、この「サブリミナル」という心理学用語を広告戦略とりわけ性的暗示を読者や顧客の購買心理と結びつけたの分析に用いて特殊にクロースアップした人物、ウィルソン・ブライアン・キイ(1921-2008)こそ今日のサブリミナル論議の火付け役である。彼の著書が結局はわけ知り顔のマスコミやコメンテーターのネタ元となっている。フロイト主義にも似た執拗な性的メッセージの解読で話題をまき、今日使われているような一種の流行語にしたのがマクルーハンの弟子、ウィルソン・ブライアン・キイなのだ。

 マクルーハン(1911-1980)の長文の序文付きの『潜在意識の誘惑』(原著73年/邦訳92年)で彼は主に印刷媒体でのサブリミナル的手法の広告を分析し、サブリミナルな知覚を「意識を迂回する、もしくは抑圧され意識にのぼらない、人間の神経系への感覚的インプット」「無意識へと連絡するインプット」を指す言葉と定義し、そこには「もちろん、洗脳や操作といった不快な−想像力をそそりはするが−行為をおもわせる、通俗的意味合いがある」ともした。彼のマニアックな分析の結果、より巧妙に洗練されていったサブリミナル広告を次の『メディア・セックス』(76年/89年)でさらに追求、『メディア・レイプ』(89年/91年、邦訳はすべてリブロポート刊)でそうしたメディアによる洗脳や操作を体系的に理論化しようとした。日本でサブリミナルが話題となるのは80年代後半、特に『メディア・セックス』翻訳前後からだが、邦訳ではサブリミナルをしばしば「潜在意識」と訳し、この定義のあいまいな言葉がまさに潜在意識をくすぐって、サブリミナルを過大にひとり歩きさせた観もなくはない。

 W・B・キイの力点はアメリカ大衆社会においてメディアと広告戦略が性を隠し絵に行なう操作の告発であり、ヒット商品の販促・ミリオンセラーのヒット曲・大統領選挙などでの大衆操作が意識より無意識に働きかける貪欲さの告発だった。皮肉にも彼の研究がサブリミナル広告に一層の関心を招きそれに拍車をかけた。

 『メディア・レイプ』でW・B・キイは視聴覚的サブリミナル戦略を次の6つのカテゴリーの重複・組合せとして整理した。

 

1 図と地の反転(混合による錯覚)

2 埋め込み(影や濃淡に身体の形などを挿入)

3 ダブル・ミーニング(意味の二重化)

4 タキストスコープ的映像(高速フラッシュとその残像)

5 微弱な映像や音(可視・可聴ぎりぎりのメッセージ)

6 ライティングとサウンドイフェクト

 

 もちろんこのどれもが(CMほど戦略的ではないまでも)通常の劇映画の演出にも取り入れられている。たとえばヒッチコックの40年代の白黒映画においては過剰なまでに室内の壁に「影」が投影されている。それはキイの言う「観客の気分、感情、緊張、平静、不安」を左右する「強力なサブリミナル効果」を生んでいるのだ(キイの事例は『炎のランナー』のライティング)。

 心理学実験などで使うタキストスコープ(tachistoscope)は瞬間的に画像や文字を投射する装置で19世紀からあるようだが(ドイツの生理学者A.W.フォルクマンの1859年の記述など)、1962年にテュレーン大学のDr.ハル・ベッカーが特許をとった高速タキストスコープ(1/3000秒で映写)がサブリミナルとの関連でよく言及される。そもそも「サブリミナル伝説」の出発点となった1956年のジェイムズ・ヴィカリー(マーケッティング専門家)の有名な実験、ニュージャージーの映画館でこともあろうにあの美しいカラー・シネスコの『ピクニック』(56年、ジョシュア・ローガン)上映中のスクリーンにポップコーンやコーラの文字メッセージを重ねて瞬間投影したとされるのがタキストスコープなのだ(その結果ポップコーンやコーラの売上が急増しサブリミナル広告の影響力が「実証」とされたことになっている)。この50年代的感覚(拡張)主義は、シネラマ(「その画期的イリュージョンは数人の観客に軽い吐き気や眩暈を引き起こしただけだった」W・B・キイ)や嗅覚映画(スメロヴィジョンやアロマラマの試み)ともどこか呼応する。

 キイはタキストスコープ的映像の例としてウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』(73年)を挙げ、観客に引き起こした不快感や悪夢をデスマスクの瞬間的ショットと結びつける。また次のような指摘も忘れない。アメリカ文化のタブーの一つ、性的倒錯がここに巧みに取り込まれた。最大のサブリミナル主題といえるペドフィリア(幼児嗜愛)も観客に気付かれぬよう注意深くアレンジされちりばめられている。無意識的知覚はセックスと死のタブーに特に敏感に反応するからだ(『メディア・セックス』第7章)。

 『ピクニック』や『エクソシスト』以外にサブリミナル絡みで取り沙汰される映画には『刑事コロンボ』の一話、ケン・ラッセル『アルタード・ステイツ』(80年)の幻覚シーン、北野武『その男、凶暴につき』(89年)のCM(1コマ"DEAD"と入れた)、ただの話題作りだった『RAMPO』等がある。他にもブラザーズ・クエイのアニメーションでは性的メッセージが気付かぬよう埋め込まれているし、リンチや特にクローネンバーグの映画もしばしばサブリミナルと関わりを持つ。キイは『潜在意識の誘惑』でヒッチコック、ヒューストン、フェリーニ、アーサー・ペンを挙げた。

 映画がサブリミナルと関わってしまう最大の根拠は、たぶん人間の目の反応速度が(脳の情報処理速度に比べはるかに)遅いという事実にある。だからこそ毎秒24コマの静止画像を残像で重ね合わせ動く映像として見ることが可能なのだが、コマとコマの間で映写機のシャッターが視界を遮り「闇」が生じても見えない。上映時間の半分ほどは闇を見ているはずなのに誰も気付かないのだ。フリッカー(光の明滅)も感じない。このサブリミナルな基底構造こそが映画を記憶や夢に近づけていると思えるが、同時にサブリミナル・テクニックに付け入る余地を与えるのだろう。

 フリッカーはある周期より遅くなるとストロボのように可視的になり不快感を始めさまざまな効果を及ぼし(初期映画では映写機のフリッカーの除去は大きな課題だった)また高速化するとまさにサブリミナルな快感を与えるとされる。フリッカーが治療に使われることもあるしシンクロ・エナジャイザーとして商品化もされた。この闇の中の明滅を浴びながら20世紀人は映画を見続けてきたのだ。

 サブリミナルがどこから搾取やペテンや催眠術となるのかその閾(しきい)は判然としない。芸術や虚構や娯楽といった「意味の場」ではあくまでトリッキーな表現手法にすぎない。ただ我々の無意識はサブリミナルから保護されてはいないし、サブリミナルも無意識も脳や心の問題としてはまだ何も解明されていないということなのだ。VALISを待ちながら、そう思う日々である。

 

©西嶋憲生

 

 

(追記)本稿と関連する内容を伊藤俊治監修『テクノカルチャー・マトリクス』(NTT出版、1994年)の1項目「エクスパンデッド・シネマ 拡張する知覚装置」(pp.140-141)でも書いており、文字データが残っていないため、後日打ち直してアップできればと思います。

(2/19にアップしました)