パイク、電子時代のトリックスター(1997)

 

(本稿は、ユーロスペースで1995-2001年に毎年開催された「アート・ドキュメンタリー映画祭」の第3回(1997年)に上映された『エレクトロニック・スーパーハイウェイ: 90年代のナムジュン・パイク』の作品解説として映画祭パンフレット兼ビデオカタログのために書かれた。)

 

 

 

 “最初の” そして “最も有名な” ビデオアーティスト、ナムジュン・パイク。世界中のめぼしい美術館はこぞって彼の大きな展覧会を開いてきた(日本では1984年東京都美術館で回顧展)。カラフルに目まぐるしく変化するTV画面は彼のトレードマーク。表面だけ見るなら楽天的なテクノロジー賛美と取られかねない。だが、パイクは(本質的に電気信号にすぎない)電子テクノロジーにいたずらを仕掛けるコンセプチュアルでアイロニカルなアーティストなのだ。

 畏友ジャッド・ヤルカットによるこのドキュメンタリー『エレクトロニック・スーパーハイウェイ: 90年代のナムジュン・パイク』(1995)は95-97年頃に全米を巡回した「The Electronic Super Highway: Nam June Paik in the Nineties」展の公式カタログと同時に制作された一種のビデオカタログといえるが、彼の作品の裏にある“パイク的思考”の逆説性・批評性、それに道化性までを存分に伝えている。

 

 1984年東京に長期滞在した折、パイク氏は古道具屋で仏像を買い集めたり(『TV仏陀』のためか?)ホテルで漢方を煎じたり本屋に足しげく通ったりしていた。そしてどこの本屋でもマルクス・エンゲルス全集を見かけなくなったと指摘した。東京で暮らす我々には気づかぬほどの変化だったが、その後のベルリンの壁やソ連の崩壊の予兆を彼は本棚の一角から感じ取っていたのだ。

 また、パリのノートルダム寺院からエッフェル塔まで車で移動したパイクは、15分で850年(正確ではない)飛び越してしまったと感じ取る。そして、これがロスなら150分走ってもせいぜい1956年から66年にしか辿り着けないと比較する(カトリーヌ・イカム論、1979)。この歴史感覚と洞察力が、彼のアートをSF的で予言的にする。もちろんアイロニーと逆説とユーモアに満ちた予言だが。

 ゴア副大統領の情報スーパーハイウェイ構想を20年近く前に予言したように、最初の「エレクトロニックTV展」(1963年3月、13台のTVの画像を変形)は後のビデオアートやTVアートを予告し、「ユートピア・レーザーTV局」番組表(1965年、30年後に放送予定)は今日のデジタル多チャンネル時代を予見していた。ロボットK-456(1964年)やパイク=阿部シンセサイザー(1970年、今日のDVEの先駆)もそうだが、彼の発明や着想は、現在の先端技術の応用ではなく、未来のテクノロジーの個人的で逆説的なシミュレーションともいえる。その結果として、マルチメディアもインタラクティブも何十年も前に彼が手がけてしまっていることになるのだ。

 そうした彼の思考は、越境的でトランスカルチュラルな経歴とも無関係ではない。

 韓国のソウルに1932年白南準(ペク・ナムジュン)として生まれ、家族と共に日本に移住し白南準として東大で音楽美学を専攻(卒論はシェーンベルク論とか)、ドイツで前衛作曲家ナムジュン・パイクとしてデビューしついでにビデオアートの創始者ともなり、さらにニューヨークに住みながら国際的(反)芸術運動フルクサスの主要メンバーとして活動。1980年代には通信衛星を使った世界数都市の同時多元中継のサテライトアートを幾つも実現した(Good Morning, Mr. Orwell 84、Bye Bye Kipling 86等)。夫人はビデオ彫刻家の久保田成子である。

 韓国語・日本語・英語・独語(プラスたぶん数か国語)を自由に操るが、何語でも結局独特でときに意味不明な“パイク語”に近づいてしまう。母国語ももうちゃんと話せないとは本人の弁。アメリカと韓国は自国の代表的アーティストとして遇し、1993年ヴェネチア・ビエンナーレではドイツの代表作家として最優秀賞を受賞したりした。

 話は国籍・国境にとどまらない。彼特有の思考回路や歴史意識は、たえず洞察からナンセンスへと越境する。

 「1933年1歳だった。1934年2歳だった。(以下1歳ずつ加算)1982年、50歳だろう、戦争がなければ」と書かれた「自筆年譜」(64年)は「2032年 100歳だろう、まだ生きてれば。3032年1000歳だろう、まだ生きてれば。 11932年 10000歳だろう、まだ生きてれば。」と飛躍する。

 1年目の1月1日から始まり数千万年に及ぶ指示が続く演奏不能な『交響曲第5番』(65年)には10年目1月3日に「トイレに入り『カラマーゾフの兄弟』を読了するまで出ないこと」という指示がある。

 

 こうした “パイク的思考” に触れぬ限り彼の作品を見たことにはならないだろう。その思考は、情報工学から漢籍へ、公的から私的へ、古代から何十万年も未来へ、だじゃれから核心へ、有限(人間の生)から無限へ、不条理なまでに運動し続ける。ポンピドゥセンターの一室から孫子の兵書のエピソードへ、突如リンクしてしまうのだ。博識というよりノマド的な知(血?)と呼びたい、多様な知の結合と解体、変形と歪曲の連続。以前、パイク著作集(未公刊)の翻訳に苦労し、このトリックスターに振り回されていた私は、彼のカラフルな作品の裏にそうした思考が高速処理されていると実感するのである。

 ナムジュン・パイク、この電子時代のトリックスターは、要するに、一筋縄で行かない厄介なアーティストなのである。

 

©西嶋憲生

 

(追記)ナムジュン・パイクは2006年1月29日にマイアミで亡くなった。

近年の大規模な回顧展としてはロンドンのテイト・モダンでのナムジュン・パイク展(2019)がある。

APが配信したその展覧会の動画レポート(下記)をYouTubeで見ることができる。