アヴァンギャルドと映画——日本の経験(2004-05,未発表)

 

(本稿は西嶋憲生編『映像表現のオルタナティヴ——1960年代の逸脱と創造』(森話社,2005)の総論の一つとして書かれた未発表稿である。「[I]映像表現とアヴァンギャルド」「[II]日本映画とその外部」という二部構成にそれぞれの総論をつける予定で書かれ、最終的に「アヴァンギャルドとオルタナティヴ——1950-60年代を中心に」という一本の総論にまとめられたものの原形である。)

 

 

前衛映画は今世紀の初頭以来、いろんな呼び名のもとに幾つかの波が現われては消えていった。しかし前衛映画とか実験映画といった呼び名でしか呼べないような映画の製作は、今もどこかで絶えず新芽のように吹きだしている。これは何を意味するのだろう。(……)私は、映画は人間の純粋な表現手段として絶えず還元される<自由>をもっているのだと信じないではいられない。——瀧口修造、1966年[1]

 

日本は俳句の国だが、俳句は表現が簡明かつ内面的で意味は暗示的である。コミュニケーションよりコンシデレーション(熟考)が重要なのだ。日本の実験映画は、一九二〇年代後半以来明らかだが、伝統的に観客を気にせず作られてきた。それは「いけばな」のように一つのオブジェであり、称えたり疎んじたりする対象なのだ。——ドナルド・リチー、1966年[2]

 

 

1       はじめに

 

 戦後日本の映画を考え直しながら、同時代の他の諸芸術に目を向けてみると、この時代は戦後アヴァンギャルドが本格的に開花し、そのなかから日本のドメスティックな表現・潮流が国際的な評価と交流を持つに至った時期でもある。たとえば、日本的な身体やしぐさからモダンダンスの文脈に独自の身体表現を編み出した「暗黒舞踏」(主宰者の土方巽が本格的な舞踏公演を行なうのは1959年の「禁色」から)や破天荒な実験や野外パフォーマンスで話題となった抽象美術家集団「具体」(画家吉原治良を中心に芦屋で1954年末に結成された具体美術協会)などである。 

 岡本太郎、埴谷雄高、花田清輝、関根弘、安部公房らの「夜の会」(1948-50年)のようなジャンルを越えた芸術家集団も結成され、そこから若い世代の「アヴァンギャルド芸術研究会」や「世紀の会」も生まれた。諸芸術の(とくにアヴァンギャルドな部分の)総合化を目指すような動きも1970年前後まで盛んだった(「実験工房」や「草月アートセンター」などから60年代後半のインターメディアのイヴェントまで)。暗黒舞踏の土方巽も美術家・文学者・詩人・写真家・演劇人と相互作用的な交流を持った。1960年代後半は政治と芸術の前衛が革命的ロマン主義の幻想と情熱を通して結びつくような時代であったし、一種異教的なアングラ(アンダーグラウンドの日本的略語)が風俗化し、アヴァンギャルドアートのサブカルチャー化ともいうべき現象も始まっていた。

 20世紀初頭から西欧で始まったアヴァンギャルド芸術運動は、近代化を邁進する現代社会において芸術家が先端的・先鋭的たらんとする時代意識であると同時に、既成の画壇・官展(サロン)・アカデミズムへの批判・反抗・挑発の対抗的な動きでもあった。マイナーな異端への隠遁ではなく「時代に先んずる」英雄性、いずれ主流にとってかわるべき「新しきもの」という意識の持ちかたに20世紀的な特異性があったともいえる。

 そもそもが支配的な芸術・文化イデオロギーからの逸脱であるアヴァンギャルドは、当初から国民国家的枠組や国境を越えて広がる本来的性格を持っていたし、ジャンルを越えて美術・演劇・バレエ・音楽・文学などが交流し、まだニューメディアだった映画にも強い関心を示したのだった。キュビスムやシュルレアリスムはそのメンバーが多国籍にわたっていたし、その影響も(西洋の模倣とはいえ)日本、アジアを含め国境を越えて広い地域に及んだ。前衛的な芸術運動が国民国家と一体化するのは、戦前のロシア・アヴァンギャルドや戦後アメリカの抽象表現主義かもしれないが、前者の構成主義はヨーロッパ諸国で広く共有されたし、後者のメンバーには亡命者・移民のほか移民の二世三世が多かったのも事実である[3]

 だが、そうした越境性・逸脱性をもつアヴァンギャルドの概念自体が「外来的」(モダニズム的)に入って来た日本では、戦前のダダや構成主義にせよシュルレアリスムにせよ、抽象絵画にせよ前衛詩にせよ、熱気にあふれた憧憬と模倣の一面を持ち(その背後には同時代的な感覚の共鳴があったが)、他方では先端的であればあるほどつねに日本の文化土壌に残存していた前近代性や土着性とのアンビヴァレントな関係や(身体であれ言語であれ)日本的なものとの直面を避けえないというパラドクスを抱えていた。もっとも、戦後の破壊と復興の強烈なエネルギーはアヴァンギャルドやアンデパンダンの精神と大いに共鳴するものでもあった(アンデパンダンは美術の自由出品展で47年から始まり、49年には読売アンデパンダン展が開始、60年前後から過激な逸脱が出始め、ついに64年「許容できない大胆さ」を理由に中止に至る)。

 

2 戦前の前衛映画

 

 戦前の日本ではヨーロッパの前衛映画運動に触発され、いくつか散発的な現象があった。それらは他分野と同じくモダニズムへの強い憧れに裏打ちされたものだった。『カリガリ博士』のドイツ表現主義スタイルは、溝口健二の『血と霊』(1923年)や牛原虚彦らの『感じの良い映画集』(1924年)などの映画で模倣され、またドイツで構成主義やダダイスムなど前衛芸術に触れて帰国した村山知義の周囲でも前衛映画が試作・上映されていた(1925年「劇場の三科」での吉田謙吉『釦』など。くわしくは西村智弘論文参照)。衣笠貞之助の『狂った一頁』(1926年)と『十字路』(1928年)は最初の本格的な前衛劇映画であり、当時「新感覚派」と呼ばれた新進小説家川端康成や横光利一が協力したことでも知られている[4]

 小型映画のアマチュア映画愛好家もパテ・ベビー(9.5ミリ)が大正末期に輸入されて以来、シネ・コダック(16ミリ)とともに昭和初期にブーム化し(小津の『生れてはみたけれど』(1932年)にもそうした光景が見られる)、あわせて1930年からのフランス前衛映画の輸入公開が小型映画の作家たちにも影響を与えた。純粋映画、モンタージュ理論、シュルレアリスムなど前衛映画への関心が小型映画界で高かったことは、当時の入門書やアマチュア映画雑誌、今日残ったいくつかの作品などからも明らかである(たとえば荻野茂二が1935年に9.5ミリで作った『表現 An Expression』は彩色された抽象アニメーションで、先駆的作品といえる)。一方、ロシアの革命的映画にイデオロギー的影響を受けた「プロキノ」(日本プロレタリア映画同盟、1927-34年)では、小型映画を活用してニューズリールや政治映画を製作し前衛の政治性を主張した。京都では構成主義や映画理論に興味を持つ美学者の中井正一や辻部政太郎らの同人誌『美・批評』グループによって『十分間の思索』(1932年、構成・中井正一、撮影・安藤春蔵)や『海の詩』(1932年、構成・辻部政太郎、撮影・安藤春蔵、色彩音楽・内藤耕次郎、音楽・貴志康一)といった実験映画も試作・発表されていた(この2本はドイツに留学した作曲家・指揮者貴志康一がドイツに持参し上映したというが、帰国した貴志が1937年に28歳で病死して以降、所在不明とされる)。

 これらの動きは1937年日中戦争が始まり日本が戦時体制に入っていくとともに、機材の輸入・製造の中止、フィルム不足による許可制、検閲の強化、前衛芸術家の逮捕・投獄などにより、アヴァンギャルド映画は無論のことアマチュア映画もきわめて限られた活動に追い込まれていった。

 

3 戦後日本の映画的アヴァンギャルド

 

 戦後もっとも早くアメリカの「実験映画」[5]の動向を紹介したのは、戦前からシュルレアリスム詩人・美術批評家として知られた瀧口修造だった(瀧口は戦前、東宝の前身の映画会社P・C・Lでスクリプターとして働いた経験もある)。1947年の「その後の、そして最近の前衛映画」で彼はマヤ・デレンやホイットニー兄弟、シドニー・ピーターソンとジェイムズ・ブロートン、ハンス・リヒターの『金で買える夢』などを紹介していた[6]。瀧口の周辺にはバウハウスやミュージック・コンクレートに関心を持つ若手芸術家がジャンルを越えて集まり、1951年にモダニズム的な芸術集団「実験工房」(瀧口の命名)が結成され、そのメンバーの大辻清司や北代省三が参加した「グラフィック集団」の大辻、石元泰博、辻彩子により1955年、戦後最初の実験映画とされることが多い『キネ・カリグラフィ』が作られる。16ミリフィルムに直接彩色したり自家現像した抽象アニメーションである(オリジナルは日本テレビ<11PM>に貸し出された際に紛失したとされ、1986年ポンピドゥセンターの「前衛芸術の日本」展のため大辻清司が同じ手法により復元版を再制作。作者自身はまったく別物であると述べている)。

 同じ55年、もう一つの記憶すべきアヴァンギャルド作品として35ミリイーストマンカラーによる日本自転車振興会の海外PR映画『銀輪』(1955-56年、その後フィルムが紛失、円谷プロで発見との誤報もあったが、2005年に徳間の倉庫から海外版の原版が奇跡的に発見された)も作られる。実験工房の武満徹、山口勝弘に若きドキュメンタリスト松本俊夫を加えてきわめて実験的に制作された作品で、『キネ・カリグラフィ』と並び戦後実験映画の出発点とされている(小学館『武満徹全集3:映画音楽1』2003年、に資料・写真・証言等が載っている)。

 1950年代の芸術思潮はよく指摘されるように分裂的であり、政治と芸術、抽象とリアリズム(もしくはシュルレアリスム)、モダニズムと伝統(ひいては西洋と日本・アジア)、という対立的・分裂的価値観のなかで、総合化やジャンルの越境がさまざまに試みられた[7]。映画界におけるそのもっとも重要な事例は松本俊夫だろう。マルクス主義やヘーゲル美学の知識を持って教育映画の現場に入り、大島渚らの「松竹ヌーヴェルヴァーグ」に対するドキュメンタリー側のカウンターパートとなった彼は、モダニズム感覚と理論的関心を持ち続けながら「ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの止揚」という世界的に見ても特異な問題設定を実作・理論両面で追求した(ルイス・ブニュエルやアラン・レネに触発されたものだが、同時に50年代の分裂した、政治と芸術、社会派と抽象派という対立の独自な統合でもあった)。『安保条約』(1959年)『西陣』(1961年)『石の詩』(1963年)といった実験的なドキュメンタリーや『映像の発見』『表現の世界』のような著書である。またATGで劇映画を撮る一方で最新の電子的・光学的映像処理技術を生かした形式主義的な短編実験映画も1970年代に連作、さらにビデオアートやメディアイヴェントにも積極的に関わるなど、その越境性・拡張性に比肩できる作家はいなかった。

 実験工房と並ぶ重要な戦後初期の前衛美術家集団「具体」でも吉原通雄『作品』(1956)が35ミリフィルムへのダイレクトアニメをスライドで手回し上映したり、嶋本昭三『具体映画』(1958年「第2回舞台を使用する具体美術」展で上映)が天皇の写るニュースフィルムを酢で洗い流しキズや彩色を施し上映するなど映画作品を生み出していた(1956年にノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩』が劇場公開されており、その影響が想定できる)。

 1958年には「キネマ旬報」5月下旬号が20ページを費やして巻頭特集を組むほど(まだ見ぬ)実験映画への関心は高かった。この時期、とりわけ美術に新しいアヴァンギャルディスムが噴出していたが、学生映画・インディペンデント映画・アマチュア映画の中にも新しいスタイルの表現が次々と現われ始めた。

 1959年から戦後の第一次8ミリブームが起こり(62年にピーク)、さまざまなジャンルの人が映画制作を試みた。たとえば日本のモダニズム詩を代表する詩人北園克衛(きたそのかつえ、1902-78)は、戦前戦後の前衛芸術の同志的クラブといえる雑誌『VOU』(「バウ」と発音、1935-78年に160号発行、途中40-46年休刊) の主宰でも知られているが、ある時期映画制作に興味を抱き8ミリ映画を何本も試作し、『VOU』関連の展覧会などで上映していた。その事実はあまり知られていないが[8]、1960年から65年(北園の57才から62才)にかけて、わかっている限りでは4本の8ミリ映画が作られた(これらは戦後日本の実験映画史で言及されたことも、同時代の他の詩人や美術家による映画と比較されたこともほとんどない)。

 また小型映画のラディカルな部分からは、大林宣彦、高林陽一(京都在住のインディペンデント映画監督)、飯村隆彦(1966年アメリカにわたり最小限の要素で成立するミニマルな構造映画の作家として活躍、80年代に帰国)といった作家たちが台頭して、パーソナルなアート表現として8ミリを使い始め、63年には「グループ・アンデパンダン」を結成した。大林の『Complex・悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』(1964年) や『Emotion・伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(1967年) はコマ撮りを多用した異色のスラップスティック・アヴァンギャルド物語映画だった。彼はホラー映画『ハウス』(1976年)以降 メインストリームの映画監督になったが撮影や編集に実験精神を持ち続けている。

 また初期の実験映画には1960年の、舞踏や詩を取り入れた写真家・細江英公の『へそと原爆』、谷川俊太郎と武満徹の『×(バツ)』 、寺山修司の『Catology・猫学』(紛失)などがある(寺山はその後も劇映画や実験映画を数多く作った)。学生映画では、日本大学映研によるダダイスム的な『釘と靴下の対話』(1958年)『プープー』(1959年)『鎖陰』(1962年)があり、不条理な社会に対する批判のメタファーに溢れる作品だった。それらは、のちに既成映画界(大映の撮影部)からドロップアウトした金井勝が自主製作する破天荒な前衛劇映画『無人列島』(1969年)や『GOOD-BYE』(1971年)につながるものでもあった。金井勝は若松孝二と並んできわめて特異な、日本固有の文脈から生まれた(西欧模倣的ではない)インディペンデント作家だったといえる。

 『The Japanese Film:Art and Industry』、『Ozu:His Life and Films(小津安二郎の美学)』、『The Films of Akira Kurosawa(黒澤明の映画)』などの著書で世界的に知られた日本在住の映画批評家ドナルド・リチーは、彼自身マヤ・デレンやケネス・アンガーの影響で8ミリ映画を作るようになり(のち16ミリ)、たぶん日本で戦後最初に見られた西洋の実験映画は彼の8ミリと思われる。彼は1950年代から詩的でパーソナル映画を数多く制作、土方巽主演の『犠牲』(1959年)からパントマイム的寓話劇『五つの哲学的な童話』(1967年)まで作風も幅も広い。リチーは同時に、日本実験映画の海外への熱心な紹介者でもあり、和歌や俳句といった日本の長く豊かな詩的伝統と日本実験映画の詩的特性とをしばしば比較して論じた。1966年にニューヨーク近代美術館で日本の実験映画がおそらく初めて上映されたときリチーは冒頭に引用した一文を書いたが、彼が指摘したような詩的伝統は、安藤紘平や居田伊佐雄、かわなかのぶひろらの作品に見出すことができるだろう。

 当時の多くの映像作家に大きなインパクトを与えたのは、1966年、草月ホールで行なわれた「世界前衛映画祭」(シネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワ選定プログラム。フィルムセンターと共催)と「アンダーグラウンド・シネマ/日本−アメリカ」という二大イベントだった。とくにアメリカ・アンダーグラウンド映画の上映は 1966-67年に数度にわたって行なわれ、スタン・ブラッケージ、スタン・ヴァンダービーク、ブルース・ベイリー、ポール・シャリッツ、ロバート・ブリア、ジョナス・メカス、エド・エムシュウィラーといった主要作家の作品を紹介、熱狂的な観客の反応があった。

 ちょうど1964-65年にかけて、簡便なカセット方式のシングル8、スーパー8のカメラとフィルムが発売され、第二次8ミリブームがわきおこった時期でもあり、松本俊夫が「いま、映画はとてつもない変貌のただなかにある。(……)商業主義的な映画館の映画が救いがたい衰退の一途をたどりつつあるさなかに、実はきわめて本質的な映画革命が、一方で着々と進行している」[9]と書いた時期であった。若い映像作家、大学生、美術家、グラフィック・デザイナーなどが、次々と「アンダーグラウンド」タイプの実験映画を作り始め、東京でフィルムコンテストや作家団体の結成も行われ、この新しい実験映画(ナラティブに依拠せずパーソナルで形式的な実験を含む)が「もうひとつのオルタナティブ」の潮流を形成していく。

 

4 モダニズム/アヴァンギャルドからの離散

 

 急激な経済成長、大学等での過激な異議申し立て運動、アングラ・ブームの加熱の後、1970年代の日本で実験映画運動は次第に定着し、地道に制作活動が続いた。1970年代半ばから海外の実験映画の紹介は途絶え、日本の実験映画は他国との交流を欠いた状態で十年ほど運動が持続、その時期に個々の作家が表現を洗練し、独自なスタイルを確立していった。そのなかには、日記映画、フィルムの物質性や映画のメカニズムの解体、コンセプチュアルな知覚の撹乱、フェミニズム的な自己省察、あるいはそれらの統合などがあったが、フィルムや映像の特性の探究を通して独自な表現を作ることや構造・プロセス・自己言及性へのモダニズム的関心、プライベートな視覚の重視、という点では共通した。

 消費社会の成熟と価値観の多様・混沌化によるいわゆるポストモダンの文化状況は、歴史感覚の希薄化によって時代に先んずるという前衛意識を無化し、70年代後半から「アヴァンギャルドの終焉」が囁かれ出した。しかし若い作家たちは古いモダニズム的装置である映画に新たな魅力を見出し、80-90年代もはや中古でしか入手できない8ミリを再利用し、軽いカメラならではのスタイルでヴィジュアル・イメージの幅広い表現を開拓した。この時期はナラティブへの回帰の傾向があり、さまざまなスタイルが組み合され転用・流用されて折衷的と見えることが多かったが、別の見方をすれば形式への関心が薄れパーソナル・ドキュメタリーや「エッセイスト的映画」(マイケル・レノフの用語)に接近したともいえる。ただそこで追求された主題は、従来なかったほど深くあるいは赤裸々に自己の存在条件を問おうとするもので、社会的な自己を問題化するために自身の身体をメタファーに使ったりゲイ・セクシャリティに言及する作品も増えてきた。1990年代半ばから現代美術のポストモダニズム的展開のなかで壁面一杯のスクリーンにプロジェクターで映像を投影するインスタレーション作品が急激に増え、映像表現と美術の接点は再び強まってきている。

 

 実験映画は、とりわけ視覚性を重視した表現ゆえに、言語の壁を越えた国際的な交流や理解に向いていたが、その一方で「日本独自の実験映画」といった捉え方もできてしまう両面性をつねに持っていた(メカスによって創始された日記映画が世界的に広がっていく際に、フランスのジョゼフ・モルデール、イタリアのトニーノ・デ・ベルナルディ、日本の鈴木志郎康では、全く異なるスタイルと相貌を持ったような地域性・個人性の面も)。ただ実験映画の分野では作家は国籍より前に一個人であり、フィルムを通して容易に越境的な相互交流をしてきたということである(社会主義時代の東欧のような例を除いて)。

 たしかに日本の映画的アヴァンギャルドは、少なくとも1950-60年代には日本映画の現状に対する「リアクション」であった。大島渚も松本俊夫も海外の影響・刺激を受けながらも、日本と無関係な「どこか他所」ではなく「日本映画のなかで」自らの作品を構想したのだ。やがてそれは何十年かかけてオルタナティブの「伝統」(伝統的前衛という逆説!)を形成していくが、私が真正の実験映画が消失したような印象を初めて感じたのは1990年代終わりから2000年前後だったが、それまでに実験映画は、時代に先んずる次代のメインストリームから境界を持つ一つのジャンルへ、さらには単なる一つのテクストへと離散したといえる。

 それは、日本における近代と近代以降の境目というべき1960年代に何が起こったのかということへの長い探究と回答でもあったように思われる。

 

付記——本稿の一部は「日本の実験映画小史」(イメージフォーラム編『日本実験映像40年史』キリンプラザ大阪、1994年所収。原文は第40回オーバーハウゼン国際短編映画祭(1994年)の「日本の短編映画回顧特集」カタログに書いた"A History of Experimantal Film in Japan")を改稿・加筆したものである。

 

©西嶋憲生

 


[1] 「ベル・エポックの前衛映画 その背景と前景」、初出『世界前衛映画祭』パンフレット、草月アートセンター、1966年、p.28。『コレクション瀧口修造』第六巻、みすず書房、1991年、所収。

[2]  in Stephen Dwoskin, FILM IS: the international free cinema, The Overlook Press, 1975, p.101.(訳文・引用者)ニューヨーク近代美術館で日本の実験映画が上映された際のドナルド・リチーのコメント。

[3] たとえば、ユダヤ系ロシア(ラトヴィア)人のマーク・ロスコ、アルメニア系のアーシル・ゴーキー、オランダ出身のヴィレム・デ・クーニング、ドイツ出身のハンス・ホフマン、両親がユダヤ系ポーランド移民のバーネット・ニューマン、などである。

[4] 『狂った一頁』『十字路』は日本の前衛映画の古典だが、長くフィルムは失われたものと思われ、奇跡的に前者が作者の京都の私邸の蔵の二階から、後者がロンドンのBFIのアーカイヴから発見され、1970年代半ばに再公開されるまで見る機会はなく戦後のアヴァンギャルド映画に直接的影響を及ぼすことはなかったと考えられる。

[5] 戦前はアヴァンギャルド映画を「前衛映画」と呼ぶのが一般的だったが、海外(とくに英語圏)では1930年代からエクスペリメンタル・フィルムという呼称も使われ、アヴァンギャルド・フィルムとほぼ同義で並行して使われ続けた。日本では50年代後半から「実験映画」という言葉が前衛映画より新しい映画というニュアンスで使われ始め、1960年代後半にはそれが一般的となる。新聞等でも見かけるようになるのは1970年代から。

[6] 『映画春秋』1947年11月号。『コレクション瀧口修造』第六巻・映像論、みすず書房、1991年、所収。

[7] 『1953年ライトアップ−新しい戦後美術像が見えてきた』展図録(1996年、目黒区美術館・多摩美術大学発行)の峯村敏明「総序」、村山康男「引き裂かれた日本・私」などを参照。

[8] 西嶋「北園克衛と映画」、多摩美術大学「北園克衛生誕100年展 北園克衛inDesign」レセプションでの口頭発表およびハンドアウト(2002年9月7日)。北園は「プラスティック・ポエム」と呼ぶ写真作品も多く残し、映画もその関連で考えるべきだろう。北園の映画作品三本は北園研究家ジョン・ソルトの手で山本悍右作品、大野一雄の舞踏とともに『Glass Wind: Kansuke, Kit Kat, and Kazuo: Three Avant-garde Japanese Masters』(1998)としてビデオ化されているが、オリジナルの所在は不明である。最近「あいだ」に連載中の西村智弘「日本実験映像史16 8ミリ映画のアヴァンギャルド」で北園の8ミリ作品に言及している(「あいだ」102号、あいだの会、2004年)。

[9] 松本俊夫「変貌する映画」「SD」1968年12月号、p.77。『映像の変革』三一書房、1972年所収。