メカスの日記は何を記録するのか? (2002)

(初出「現代詩手帖」2002年7月号 ドキュメンタリー特集, pp.70-75)

 

 ジョナス・メカス(1922- ,リトアニア生まれ)の新作日記映画『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』(2000)を見た。50歳をすぎて結婚した彼自身の家族、妻のホリス・メルトン、娘ウーナと息子セバスチャンの成長を中心に構成した、全12章288分、途中休憩を入れると5時間をこす大長編だ。

 久しぶりにメカスの映像世界を堪能したのだが、瞬間瞬間の断片的イメージが連鎖していく感覚が、従来の彼の日記映画にくらべてもより研ぎすまされた感じだった。人生の瞬間を集めたものでありながら同時に人生を瞬間に解体していくような、「瞬間性のアート」とでも呼びたいものに立ち会っている感覚を味わった。断片性が強まり、深く記憶に立ち入り、より複雑に時間と場所がまざり合っている。

 じつは昨年にもビデオ版で『楽園のこちら側』(99年、34分、オリジナル16ミリ)を見る機会があった。おそらくウォーホルを介してメカスが友人となったケネディ一家(JFK未亡人ジャクリーンとその遺児たち)を撮った一種のホーム・ムーヴィーである。海辺の別荘で食事をし、海水浴をし、遊ぶ子供たち、大人たち。とても幸せな情景、エロティックなほどに生々しい子供たちの身体と表情。その裏にJFK暗殺があり、おそらくJFKジュニアの死(99年6月に飛行機事故死)もこの作品の成立と無関係ではないのだろう。

 そのときも感じたのは、メカスがこれらの瞬間瞬間を見ながら「回想」しているという強いニュアンスだった。ただ撮影された断片を並べ日記を現在形で見せているのではなく、それを見ながら作者がモント−クの別荘でのあの夏の日々を思い返し、そのとき私もそこにいたと一瞬一瞬の映像のなかに感じている、そういう感覚をたびたび感じたのだ。これはもはや日記というより記憶と呼ぶべきものではないか。メカスの記憶映画——。"Fragments of Unfinished Biography"という字幕が何度も出てきた。未完成の伝記の断片。切れ切れで、ばらばらで、明暗もめちゃくちゃな、瞬間瞬間のイメージたち。それがメカスの記憶のなかで一体となり、まざり合い、溶け合っている。この感覚は新作『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』でより先鋭に、より強化されて表現されていた。

 すでに80歳に近いメカスが深夜にたった一人で編集機に向かい(ナレーションで語られる)、自分の家族や子供たちの二、三十年前のフィルムを次々とランダムに手に取ってはつないでいく。時代順でもなければテーマ別でもない。ただ思い出すままにといった感じで次々とつなぐ。つながれたフィルムのなかで時は進み、戻る。あるいは記憶のなかで時は進んでいないかもしれない。真冬のセントラルパークの次に夏の同じ公園が、また真夏の太陽がソーホーの吹雪につながる。五ヶ月のウーナは五歳になった後で出産シーンが出てくるし、ウーナがバイオリンを弾いたりバレエを踊っていたかと思うと、またよちよち歩きに戻ってしまう。時間も場所もばらばらなのだ。だが、おそらくそれ故に、その断片的イメージの連鎖はプルースト的ともいえる記憶と想起の運動となって人を時の彼方へ連れ去っては連れ戻る。その飛躍に満ちたダイナミックな連鎖が、これまでの作品にもまして、何とも不思議な魅惑と昂揚感を与えたのだった。

 

 メカスの映画は、誰が見ても「私的」であり「日記的」である。その映画は彼が自分自身のまなざしで即興的に捉えた日常世界の出来事であり、家族や友人たちのポートレイトである。それは出来事の外に立ち事件をニュースとして伝える第三者の視点とは違うし、出来事の中に入ってそれを記録し分析しようとする参与観察者の視点とも違う。そもそもその映像は「たいしたことが起きなくて、何も特別なことが起きない」「どれも日々のさりげない営み、ふだんの暮らしにすぎない」ものなのだ。

 そうした映像の蓄積だからこそメカスの映画は「日記映画」と呼ばれたのだが、それがホーム・ムーヴィーやホーム・ビデオと峻別されるのは、メカスが映像の私的な意味に拘泥していない(閉ざされていない)からではないか。明確なスタイルを持つ作品であり、一般の映像作品と違って一作品ごとに完結しない「開かれた構造」(次の作品とつながることで幾らでも長大化しうる、終わりのない累積的構造)という、きわめて特異な映画的特徴を持つ作品であるのはもちろんだが、作者の問題意識は私生活の露呈にはない。私や家族や友人の日常的でトリヴィアルな姿を通して(それを素材として)、むしろ20世紀の世界を記録し証言しようとする意志、そしてメインストリーム映画に対抗しようとする意志。

 「この映画(『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』)は私が出会ったり一緒に暮す人々の声や顔の表情やささやかな日常的行動の記録を通して、人々の微妙な感覚、感情、日々の喜びを記録したもので、長年にわたって私はそれを撮り続けてきた。これは、現代映画の多くを支配するスペクタクル的でエンターテインメント的でセンセーショナルな行動とは正反対のものだが、そういうものこそが人間や社会や人類によい変化をもたらすと私は考え信じている。私が興味あるのは、強硬で声高で荒々しい行動や政治的行動、特に現代の政治システムに対して、微妙でほとんど目に止まらない行為や体験や感覚を記録しておくことなのだ。」(2001年ベルリン国際映画祭公式カタログの「作者コメント」より)

 メカスが私的な出来事や情景を素材としながら私的な意味に拘泥していないと思われる理由は無数にある。たとえば『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』のなかでも、影を写しこんだ繊細な写真で知られる女性写真家オリヴィア・パーカー(東京でもパルコ・ギャラリーなどで個展)が第五章の終わり近くに出てくるのに、交友関係や彼女が出る意味などいっさい語られない。アンダーグラウンド映画の同志であった批評家P・アダムズ・シトニーの家族が頻繁に出てくるのは親友だから当然として、妻のマージーが映像作家マージョリー・ケラーであることには触れない。彼女は双子の娘オーガスタとミランダを産んだはずだが、この映画によく出るスカイとブレイクは彼女の子ではないようで、そうすると前妻リディア・デイヴィス(小説家・翻訳家、ポール・オースターとも結婚していた)の子なのか。いや、それよりも幸せそうなシトニー一家の映像は、妻マージーが94年に急死した事実に全く触れようとしない。いうまでもなく、メカス自身はそれを知った上でこれらの映像を見たりつないだりしているのだが、私的記録の中の特別な意味や感傷ではなく、誰もが目にし体験しうる家族の情景として、メカスのいう「楽園」のイメージとして、選ばれ、並べられているようなのだ。

 「楽園」はつねに失楽園(Paradise Lost)と一体であり、79年に発表した『いまだ失われざる楽園』(Paradise Not Yet Lost)以来メカスの頭にある言葉だろうが、「映像と精神の楽園について」(「太陽」93年7月号、創刊30周年記念特集"人間の現在"掲載)あたりから、幸福と楽園というキーワードがメカスの文章や映画によく出るようになった。当初メカスの楽園とは、現代文明が失ってしまった、大地や自然と一体になったシンプルな生活を指していたようだが、この映画では何よりも自らの(そして誰もの)子供時代とその記憶——失われ、取り戻され、また失われる幼年期——が楽園と幸福の象徴としてくり返し語られている。

 たしかにこの映画には幸福が満ちているように見える。子供たちの誕生、成長、可愛い盛りの子供たち、メカスの子煩悩ぶり、親しい友人たち、ニューヨークの公園。まさに彼のいう「幸福と美」に溢れた世界。だが、深夜に一人で語るナレーションはそれと対比的に孤独なものだ。時を隔てて、過去の瞬間を見直しているメカス、失われたものを直視しているメカス、というニュアンスが今までになく強い(メカスが離婚したとしばらく前に耳にしたが事実なのだろうか?)。

 

 こうしたメカスの日記映画をドキュメンタリー映画という角度から読み直す試みがある。メカスの映画は、その特徴をなす極端に短いショットやコマ撮りの多用、三脚をほとんど使わず作者=撮影者のまなざしを強調する主観的カメラワークなどの歴然たる外見から、アヴァンギャルド映画、とりわけアメリカのアンダーグラウンド映画の一つとみなされてきた。古典的ドキュメンタリーも1920〜30年代にはアヴァンギャルド映画と多くの接点を持ってはいたが、今日、フィクションとドキュメンタリー、プライヴェートとパブリックといった境界領域で多様な問題提起がなされドキュメンタリーが再考・再定義されつつある時期にメカスの表現が読み直されるのは意味あることだろう。

 しかしながら、メカスの映画はプライヴェート・ドキュメンタリーとかパーソナル・ドキュメンタリーと呼ばれるような作者やその家族を曝け出す類いの映画とはまるで異なっている。その一方で、単なるアヴァンギャルド映画にも収まりきらない、「メカスの日記映画」としか言い様のない映画であって、しかも素材は現実の情景と現実の人物、その組立て方にしてもドキュメンタリー映画と通じなくもない。

 それを「エッセイスト的映画」という新しい概念でドキュメンタリー映画の側から読み直したのはマイケル・レノフだった。ドキュメンタリー映画の理論家・批評家であるレノフの視点は次のようなものである。

 

「6巻からなる『ロスト・ロスト・ロスト』の最初の2巻で、メカスはブルックリンを中心としたリトアニア人社会に焦点を当てる。この難民の人々は第二次大戦直後にソビエトの迫害を逃れる際、土地、気候、習慣、言語、文化的背景に関して深い喪失感を味わった。リトアニアの詩人や政治家たちは、この地には精神のよりどころがないことに気づく。その土地の大きさや世界における地位はソビエト連邦のそれの倍になっており、「大国」によって、彼らの抑圧感は強められる。メカスの偉大な作品は、通常きまってアメリカの前衛作家の自伝的作品に分類されるが、実際にはこの作品は14年間(1949〜63)にわたる少なくとも3つの歴史を語っていくのである。すなわち、リトアニアの亡命者たちの歴史、1950年代後期/1960年代初期の「原爆禁止」の社会的抗議運動の歴史、そして同時期に勃興したアンダーグラウンド映画界の歴史である。映画的記録の軸としてメカス自身の歴史と体験が取り上げられるが、それは幾重にもわたる歴史記録の層のなかへ包み込まれる。メカスの主観性は、現実に経過した数十年の期間や3時間という上映時間枠を超えて、自由に動き回るが、この主観性は[スタンリー・]アロノヴィッツが[「アイデンティティについての省察」で]言ったように、たえず流動する諸制度や重要な他者との特殊な複合的関係によって構成されたアイデンティティなのである。」(「新しい主観性 シネマヴェリテ以降の時代におけるドキュメンタリーと自己表現」『DOCUMENTARY BOX』7号、1995年、高橋直訳、山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局刊)

 

 この主観性を、私的ならぬ詩的意識と読み替えるとき、メカスが歴史を記録しようとした独特のスタンスや形式の意味が明らかになるのではないか。

 日本で1973年に初公開されたメカスの代表作『リトアニアへの旅の追憶』(72年)にしても、当時それをドキュメンタリー映画と捉えた人はいなかっただろう。形式は余りに芸術的・前衛的、内容は余りに私的・自伝的だったからだ。しかしその一方で、この映画に映像作家やアヴァンギャルド愛好家だけでなく、詩人・文化人を始め幅広い観客が特別な関心と愛着を寄せ、それが日本におけるメカス受容の今日に至る広範な基盤を作ったこともまちがいない。

 メカスは映画を撮る以前からもともとリトアニア語で詩を書く(今も書く)詩人だが、『リトアニアへの旅の追憶』を受け入れた人々、なかでも詩人たちは、母国語を奪われた詩人が映画で日記を撮りはじめた「内的必然性」を、どこかで直観的に感じ取っていたのではなかったか。メカスの日記映画のなかに、日記と詩との秘められたつながりを感じ取り、発見していたのではないか。

 平出隆『ベルリンの瞬間』のなかの次の洞察。「日記が詩または美術でありうる理由を、そして詩または美術が日記的時間と深くかかわることを、ぼくはこの国で証明しようとしていた。そして、それは「歴史」と「私」とのあいだに生み出される距離にかんするものであった。そこにひろがる「死者」を記憶するものとしての言葉、という観念をも導き出すはずのものであった。」(325ページ)

 メカス自身はこんなふうに語る。「世間は私を、コミュニストとレッテルをはっているけれど、ブルックリンにいるこの何年間か、ほとんど政治と縁がない。詩人は、世間にとってはコミュニストなのだ。しかし、私はそこに、カメラを持って、いた。亡命者たちを記録する目、カメラによる歴史の証人になりたかった。カメラを持って、私はそこにいた。複雑な思いで、記録していた。」(『ロスト・ロスト・ロスト』リール2のナレーション)

 「様々な人間の観察記録といってもよいものだから、実は『人類学的スケッチ』と呼ぼうかと考えたこともあります。(……)ある意味では、これはリュミエール兄弟に捧げた作品でもあります。リュミエールの作品は短いスケッチですから、もし二時間リュミエールの作品を上映しようとすれば、百余りのスケッチを観ることになるでしょう。私の新作は従って百年後のリュミエールと呼べるかもしれません。」(『時を数えて、砂漠に立つ』「メカス、新作を語る」イメージフォーラム1986年4月号)

 外界と内面の記録者・観察者。そこに詩人・難民・亡命者である私と歴史との関係が記録され観察されていたともいえる。

 「しかしながら、この映画(『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』)はドキュメンタリー映画とはみなせない。この映画は現代の映画詩人たちが作り上げてきた伝統にしたがっているし、私の関心は、自分の素材を撮影し構成するパーソナルなやり方を通して、現実のつかの間の瞬間を強化することなのだから。」(前出、ベルリン映画祭カタログ「作者コメント」)。   

 マイケル・レノフがモンテーニュからニーチェ、アドルノ、ロラン・バルトにいたるエッセイストの流れを援用しつつ、私的かつ史的かつ詩的な「エッセイスト的」視点の重要性を主張し始めたのは1990年前後のことだった。90年代は、ドキュメンタリーが、まさにさまざまな境界でフィクションや実験映画や個人映画と接触・交流・影響を重ね、ジャンル自体の境界を踏み越えていった時代にほかならなかった。パーソナル・ドキュメンタリーといった言葉をよく耳にするようになったのも90年代半ばからのことだ。

 メカスが最初に日記映画をまとめて発表してから35年近くが経つが、その間にドキュメンタリーの方が日記や詩に近づいてきた面もある。それはドキュメンタリーが歴史だけでなく日記的な時間や主観性とも無関係ではありえないこと、映画はつねに誰かのまなざしによって撮影されるがその誰かが誰なのかが問題であることが自覚されてきた証左とも言えるのだろう。

 

©西嶋憲生

 

(補記)ジョナス・メカスは2019年1月23日にブルックリンの自宅で96歳で亡くなった。2022年は生誕100年記念として世界各地で上映会や催しが行われ、ベネチア国際映画祭で上映された彼の未公開の映像・音声を含む新作ドキュメンタリー"Fragments of Paradise"(2022, K.D.Davison)はBest Documentary on Cinema賞を受賞した。