抽象映像をめぐる冒険〜アブストラクト・シネマ小史  海外編〜(2022増補版)Part2

 

(初出「月刊イメージフォーラム」1994年4月号「特集アブストラクト映像と幻覚」、pp.70-79。その後の情報や研究をかなり追記。長文につきPart1と2に分載)

 

Part1はこちら。

 

 ユダヤ人と抽象芸術(ナチスの言う"頽廃"芸術)という二重のナチスの迫害によりアメリカ(ハリウッド)への亡命を余儀なくされたオスカー・フィッシンガー(1900-67)こそ、抽象アニメーションをアメリカ西海岸にしっかり根付かせ、後々まで大きな影響を及ぼした人物であり、戦前ドイツと戦後アメリカをつないだ人物であった。

 トーキーになってすぐ作られた彼の『スタディ』シリーズはポピュラーな曲とシンクロした抽象形態の楽しい動きで欧米では劇映画と併映された(日本については注参照)。今日のミュージックビデオ(MV/PV)につながるビジュアルとミュージックの最初の合体者といえる(スイスのR・プフェニンガーが29年にそういうアニメーションを作ったのが最初という説があるが未見なので判断できない)。また彼が正規の美術教育を受けていない独学者でむしろ音楽家志望だったことも特筆すべきかもしれない。

オスカー・フィッシンガー『スタディ』Nr.6 (1930)

 

(注)日本でも東和が輸入しプリントが現存するので、劇場で併映されたと思われる。プリントは鎌倉の川喜多家に所蔵され、後に東京国立近代美術館フィルムセンター(現、国立映画アーカイブ)の所蔵となり、2006年3月のフィッシンガー上映会のため新たに上映プリントが作られた。収蔵作品は『スタディ』シリーズのNo.5-12(6を除く)で、なかでもより洗練されたNo.11と12は珍しい作品だった(No.11[1932]はモーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のメヌエットによるもの、No.12[同]はアントン・ルビンシテインの歌劇「フェラモルス」から"カシミールの花嫁たちの踊り"によるもので、12はオスカーの弟ハンスが全面的に描画した作品)。

 

 1988年に東京ドイツ文化センターで、きわめて状態のよい35ミリ修復プリントで、リヒター、エッゲリング、ルットマン、フィッシンガーらの抽象作品を比較して見る機会があった。そのとき痛感したのは、往々にして一緒くたにされやすい彼らの作品の質的な違いであり、フィッシンガーのずば抜けた才能だった。

 1880年代生まれの前三者に対し1900年生まれのフィッシンガーは世代も違うし、彼はのちにチベット密教や神秘主義に傾倒するような「精神世界」の探求者でもあった。とくに非幾何学的でふわふわした不定形な形を好むルットマンとは類似性があるにも関わらず、フィッシンガーの「動き」はひときわ見事でスムーズでスピーディである。この動きのコントローこそリヒターやエッゲリングの苦労したものだったが、フィッシンガーは滑らかで速く、ときに炸裂する。しかもジャズやワルツやクラシックとぴったりシンクロしているのだ。 ハンガリー人化学者ガスパール・ベーラ博士(1898-1973、ナチスを逃れ米国に亡命後もカラーフィルム製造を継続しようとしたが最終的にはライバルのテクニカラー社と3Mに特許を売ることになる)が1932年に開発した減法混色方式のカラーフィルム「ガスパーカラー」をフィッシンガーは最も早く実験し33年には作品化した(英国にいたレン・ライ[1901-1980、ニュージーランド生まれ]のデュフェイカラーやガスパーカラーによるアニメーション作品は35-36年から)。

 UFAに特撮アニメーターとして属していたフィッシンガーはフリッツ・ラングの『月世界の女』(28-29)の特撮を担当し、亡命後はパラマウント、MGM、ディズニーとハリウッドのスタジオを転々とする。とくにディズニー・プロではかの『ファンタジア』(40)の最初のアイデアを出し、クラシック名曲と抽象映像の共演として「トッカータとフーガ」が作られ始めたが、意外に面白そうなのとあまりに抽象的なためディズニーはキャラクター・アニメ化し、フィッシンガーは途中で降板した。それでも現在の「トッカータとフーガ」の後半の形態やその動きにはフィッシンガー固有のものが見られる(数年前に出た限定特別盤LDの特典の証言では彼のことはごく僅かしか触れられていないが、このパートにはフィッシンガーのオリジナルデザインやプランも活かされたとされ、フィッシンガー自身も『アメリカン・マーチ』(41)や『ラジオ・ダイナミクス』(42)の一部にそのアイデアを活かしたとされる。cf.ウィリアム・モリッツ『Optical Poetry: The Life and Work of Oskar Fischinger』インディアナ大学出版局、2004)。

 しかし、それ以上に重要だったのは、彼の作品がたとえば1940年代後半にサンフランシスコ美術館の「アート・イン・シネマ」(実験映画作家フランク・スタウファチャーFrank Stauffachar[1917-55]が1946-54年に運営)などでたびたび上映され、それを見たハリー・スミス(『Early Abstraction』の#5はフィッシンガーに捧げられた)、ジョーダン・ベルソン、ハイ・ハーシュらに(そして彼らを通じてその次の世代にも)多大な影響を及ぼしたことである。ホイットニー兄弟はもっと早く1940年前後にロスの画廊でフィッシンガー作品に接し、以来彼との交友が続いていた。

 

 ホイットニー兄弟の場合、少年時代から機械マニアで天体望遠鏡を作ったりしていたが、兄のジョン・ホイットニー(1917-95)は作曲、弟のジェイムズ・ホイットニー(1921-82)は絵画に関心があった。ポモナ大学を出てジョンは現代音楽と写真、ジェイムズは抽象画家をめざし、二人の関心の接点から兄弟で39−40年『ヴァリエーション』を、43−44年に5本の抽象的な「フィルム・エクササイズ」を製作。一貫して「ヴィジュアル・ミュージック」としての抽象アニメーションの道を先駆的に探究した。

ジョンは大学を出てからパリに住み隣人のシェーンベルクの弟子から影響を受けたというが、このエピソードは数年先輩のジョン・ケージとそっくりの経歴だった。

 ドイツ生まれの女性画家ガルカ・シャイヤー(バウハウスのクレーやカンディンスキーらのアメリカへの紹介者・代理人であり、マヤ・デレンの親友でもあった)がジョン・ケージを1937年に『オプチカル・ポエム』制作中のオスカー・フィッシンガーに若手作曲者として紹介していたのも面白い偶然だった。ケージはフィッシンガーをパーカッション曲のコンサートに招き、その新しい音楽に興味を持ったフィッシンガーと作品を作るべく、自らも『オプチカル・ポエム』の制作作業にアシスタントとして参加したりしたが、結局、アニメーションのプロセスと作曲のプロセスがうまく合致せずコラボレーションは実現しなかったが、「時間を凍結させるプロセスの退屈さ、そして映写機を通じて再び時間が流れ出す信じがたい瞬間を目の当たりにした」とケージは述べている。そして、後年までフィッシンガーから東洋思想の影響を受けたことにたびたび言及していた。

 モンドリアンやシェーンベルク(カンディンスキーの親友でロスで教えていた)の影響を受けながら「抽象映像」という関心で合致したジョンとジェイムズは持ち前の発明家的気質でさまざまなドローイング・マシンやオプチカル・プリンター(特撮でマスク合成などに使われる光学焼付機)を考案するが、米軍ジャンク品の初期アナログコンピュータ(対空高射砲の弾道計算用とも対戦闘機用の機銃動作制御装置ともいわれる)を購入したことで、複雑で手間のかかる撮影プロセスを制御できるようになり、独特の画像処理を実現(初期は自作の電子音楽も作曲した)、自分たちの作品以外に1950年代ハリウッド映画のタイトルバックにもよく使われた(有名なものでは『めまい』(58) や『マーメイド作戦』(66) のタイトルバック、『2001年宇宙の旅』のスターゲート・シーン。また種々のCMにも活用された)。

 晩年にフィッシンガーが手描きにこだわり『モーション・ペインティング』(No.1=1947, No.2=1957, No.3 fragments=ca.1960)のような重ね塗りのコマ撮りの傑作を作るのに対して、ホイットニー兄弟は初めから機械的・自動的・数学的な画像形成を目指した。しかし、その装置やシステムの使い方では、コンピュータをピアノのようなものと考え(ピタゴラスは数学=音楽とした)電子的・個人的なカラー・オルガンとしてのCGへ向かうジョンと、仏教や精神世界に深入りし傑作『ラピス』で内面的ヴィジョンやマンダラ的イメージ(それはまさにブラッケージの言う"Closed Eye Vision(閉じた眼のヴィジョン)"や"Inner Eye(内なる眼)"に通じるものであった)へ進むジェイムズの大きな資質の違いがあった。

 とはいえ、視覚運動そのものに内在するハーモニー(秩序ある変化と生成)を驚嘆すべき美に結実した彼らの業績は称えても称えきれぬものである。

 

 ジェイムズ・ホイットニーの『ラピス』を始めとする精神世界のイメージは、1960年代半ばのドラッグ・カルチャー、サイケデリック・カルチャーのなかで、従来の抽象とはまったく別の文脈で(内的トリップと非対象・抽象フォルムの結合として)賛美された。サイケデリックとは、LSD25(1938年にスイスの化学者ホフマンが合成し43年に幻覚剤として発見された。その後精神医療の治療用に使われ、1960年代アメリカで幻覚剤として大量に流布された)の幻覚トリップによる極彩色の夢幻模様やくねった現実変容感覚のことだが、その感覚の「映像化」のなかでかつてのカラー・オルガンはロック時代のライトショーに変わった。

 ジェイムズ・ホイットニーの親友ジョーダン・ベルソン(1926-2011)は、そうしたライトショーの先駆けとなるプラネタリウムでのVortexコンサート(1957-59)の後、ヨガ修行を経て、抽象的な色や光だけによる瞑想的ヴィジョンを「コズミック・シネマ」として連作し、『サマディ』(67)等で一世を風靡。抽象映像を超越体験へと"昇華"した。

 その同じサイケデリック・カルチャーから生まれた別の抽象的表現が、知覚への直接刺激を狙う「フリッカー映画」ないし「知覚映画」だったと言える。トニー・コンラッドの『フリッカー』(65-66)やポール・シャリッツの『T,O,U,C,H,I,N,G』(68)がエポックメイキングで、ここにはフルクサスやミニマルアートの文脈も絡んではいたが、『アブストラクト・シネマ』ではジュールズ・エンゲル(1909-2003、ブダペスト生まれ、ロス在住。カリフォルニア美術大学(CalArts)の実験アニメーション講座の創設者)の『ランドスケープ』(71)が色面抽象のカラー・フィールド・ペインティングと比較して紹介されている。

 こうしたサイケデリック・アートやオップ・アートの系譜上に今日のいわゆる"ビデオ・ドラッグ"があり、その人気は抽象映像への関心と重なるもののデザイン的・通俗的で、私には安易な装飾と見えた。同時に、メディアがフィルムからビデオ、そしてCGへと"進化"するにつれ質的に低下するという映像表現の法則がこの主題においても実証されている気がしていた。CGがデザインやシミュレーションといった実用性を超えた価値を創出できるのか私は懐疑的だったが、本作でマイケル・スクロギンズとヴィベケ・ソレンソン(1968-)という未知の作家の秀作を目にして、その美しさには心を打たれた。CGあるいはデジタルアートと抽象については本稿の枠外なので別稿に委ねたいが、ジョン・ホイットニーはドットから構成されるコンピュータアートは本来的に(3次元的な)現実再現ではなく2次元的な抽象に向かうべきと初期から主張していたことを付記しておく。

 

 

 日本では、抽象映画の系譜は貧弱であり、本格的なもの、継続的な作家は多くはない。1988年にO美術館の「アニメ進化論」展で私は日本の抽象アニメを1プログラム組んでみたことがあるが、やはり作品を集めるのに苦労した。佐々木こづ枝の『ROKKAQUISM』(83)や『VARIMATION』(84)は傑作だが、全体に動くグラフィック・デザインの域を出ず、抽象アニメーションの伝統の浅さを痛感させられた。

 だからこそ、というべきなのだろうが、小型映画作家・荻野茂二(おぎのしげじ、1899-1991)が戦前に作った構成主義的な抽象アニメーションは大いに注目すべきである。戦前戦後をわたり日本の小型映画運動の指導者であり作家でもあった荻野氏の8ミリ、9.5ミリ、16ミリの作品が没後遺族によりフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)に寄贈され、その一部が修復され35ミリプリントが作られた。

 とくに1935年の『表現 AN EXPRESSION』『開花 PROPAGATE』(9.5ミリ)や『リズム RHYTHM』(8ミリ)はいずれもサイレントだが、抽象的デザインのリズミックな運動が興味深く、かなりの撮影テクニックとアマチュア的な愉しみがまざりあって心惹かれる。ドイツ絶対映画の影響は現物ではなく雑誌記事からのものらしい。なかでも『表現 AN EXPRESSION』はコマごとの彩色で3D的なカラー効果を感じさせ、きわめてユニークな抽象色彩アニメーションだった。時期的にもカラー・アニメーションの実験としてフィッシンガーやレン・ライに並ぶ早い時期のもので、これらの作品は当時の海外のコンテストで一位となり評価されていたのだった。

(追記)荻野茂二の作品のいくつか(上記の3作を含む)は所蔵先の国立映画アーカイブにより以下のサイトで公開されている。

 

 

 戦後では、1950年代半ばに東京国立近代美術館フィルム・ライブラリーでその運営委員の一人だった瀧口修造が「抽象映画特集」(1955.4)などを企画し、実験工房の『キネ・カリグラフィ』や『オート・スライド』と1920年代の絶対映画を併映したりして、そういうところから戦後の実験映画史が始まったともいえる(詳しくは当サイトの「論考・エッセイ」に再録した「瀧口修造と映画」も参照)。

 しかし、実験映画でも実験アニメーションでも抽象が主流をなすことは一度もなかった。わずかに飯村隆彦のミニマル映画や小池照男の『生態系』シリーズに独自な展開を見出せる程度である。それだけに『アブストラクト・シネマ』が啓示するものは大きいと思うのである。

 

 そもそも映画という何より再現的・具象的な記録手段に「抽象」という考え方が、持ち込まれた動機は、普通こう考えられ、説明されることが多かった。いわく、1910年代初頭にカンディンスキー(対位法・相対性・感情)、マレーヴィッチ(シュプレマティスム・ロシア的終末論)、モンドリアン(反自然・近代建築空間・普遍性)らが、それぞれ異なる理由と経路で、しかし同時期に到達した「抽象絵画」という発想が、新しい物好きの前衛芸術家によって当時のニューメディアだった映画に不器用に導入された結果、抽象映画が生まれた。そして、抽象絵画におけるさまざまな分類、幾何学的抽象、抽象表現主義、オップアート、冷たい抽象、熱い抽象、等々が抽象映画や抽象アニメーションの分類にも持ち込まれたがちだった。

 しかし、それでは通俗近現代美術史の単純な応用、置き換え、映画版にすぎず、この種の映像が(音も含めて)持つ特有の深い体験やリズミックな躍動、つまりは固有の感動を十分に説明できるものではない。

 絵画が映画になるとき空間が時間となること、あるいは今世紀初頭の美術における不安定・動的・流動的・リズム的な知覚の形象化、その中での音楽的・聴覚的体験の重視、また抽象作品(絵画であれ映像であれ)の幾何学的な空間把握による非ユークリッド的(トポロジック?)空間の共通性などが度外視され、とりわけ抽象映像が「聴覚的体験の視覚化」という20世紀的主題に貢献してきた側面が忘れられてしまうのだった(関連して、リトアニアの作曲家・画家ミカロユス・チュルリョーニス[1875-1911]のような特異な才能がカンディンスキーよりも早く抽象絵画を描いていたことなども)。

 『アブストラクト・シネマ』は、こうした今世紀(20世紀)特有な視覚と聴覚の共感覚的表現の歴史に新たなパースペクティブを拓いて見せた。これらの作品のリズム・色彩・形態・空間などについて、美術とは異なる角度から深く考える糸口を与えてくれたといえる。

 

©西嶋憲生

 

(付記)本稿と関連した原稿として、京都造形芸術大学編『映像表現の創造特性と可能性』(2000年,角川書店)のために書かれた「映像と抽象表現」の項を参考として再録する。

「映像と抽象表現」(同書、pp.100-101)

具象的な再現から非対象のイメージへ

 イメージと意味の関係を考えるうえで避けて通れないのが「抽象」という問題である。 私たちは、眼球や網膜を通して、世界をたえず具象的・再現的に捉えているのだが、もういっぽうでは同時に、目を閉じたとき脳裏に浮かぶ漠然とした模様のような形で、抽象イメージというものを脳(あるいは心)のなかに生みだしてもいるからである。

 それは、「言語」で表現できる意味や論理では単純に捉えきれない、まさに「イメージ」とよぶしかない世界なのだが、20世紀の芸術家たち(なかでもヴィジュアル・アーティスト)のなかには、映像をふくむさまざまなメディアを使って、そうした内的な抽象イメージを表現することができると考え続けたひとびとがいた。

 現代美術においては、抽象絵画は20世紀の主潮流といってよいほど支配的なものであるが、それが美術史に登場したのは1910年前後のことである。ヴァシリー・カンディンスキー(ロシア出身ドイツ)、フランティシェク・クプカ(チェコ出身フランス)、ロベール・ドローネー(フランス)、カジミール・マレーヴィッチ(ロシア)、ピート・モンドリアン(オランダ)らが、それぞれ異なる理由や動機からほぼ同時期に抽象絵画を創始し、理論化したのだった。それは要するに、外界の対象を再現して描くのでなく、「非対象」(ノン・オブジェクティブ:「無対象」とも訳され、ノン・フィギュラティブ=非具象ともほぼ同義)の色と形の世界を描く絵画であり、それを通して精神・感情・神秘などを描こうとする絵画であった。

 こうした抽象絵画登場の背景には、現実を機械的に再現する写真という複製メディア(1839年~)の出現により、平面に手で描く絵画という表現の役割を画家たちがあらためて考え直し、再定義しなければならなかった事情もあった。そうしたアクチュアルな問題意識のなかから画家たちは、色や形態を純粋に探究しようとしたり、ルネサンスいらいの「遠近法」というイリュージョンによる3次元空間の再現を否定して絵画(タブロー)の平面性を強調したりしはじめるのである。なかでも、音楽を絵画表現におきかえようとしたり、「共感覚」(シネスシージア:ひとつの刺激から複数の感覚が同時発生すること)を表現しようとする、「聴覚体験の視覚化」という関心は注目すべきものといえるだろう(逆に、音楽で色など視覚的なものを表現しようとする試みも同時期にあった)。

 1910~20年代にひろまった抽象絵画は、さらに第2次大戦後になるとアメリカでジャクソン・ポロックやヴィレム・デ・クーニングらの「抽象表現主義」として大旋風を巻き起こし、いよいよ抽象絵画が美術界を席捲するようになる。

動く抽象絵画から「ヴィジュアル・ミュージック」へ

 こうした美術界の動向が「動く抽象絵画」という形で映像メディアのなかに入ってきたものが抽象映画だった。しかし、1920年代はじめにドイツのハンス・リヒターやヴィキング・エゲリング(スウェーデン出身)といった抽象画家が「絶対映画」とよばれる抽象映画(抽象アニメーション)を作って以来、論議の的となってきたのは、本来カメラのレンズを通して外界の対象を客観的に捉える映画というメディアで、「非対象」の抽象世界を描くのが妥当なのかどうかであった。

 今日のように、コンピューター・グラフィックスやミュージックビデオのなかで頻繁に抽象映像がみられる時代には、こうした論議のポイントはかえってわかりにくいかもしれないが、もともと、写真的映像の最大の特質は、現実を忠実に再現する具象性・再現性にあり、それが抽象絵画発生の一因にもなったのであるから、写真や映画を非具象・非再現的な抽象表現に使うのはメディア本来の方向とは逆なのではないか、という否定的な考え方にも十分な理由があったのである。

 リヒターやエゲリングと同じ時期に、やはりドイツのオスカー・フィッシンガー(1900-67)は、早くから抽象映像と音楽の一体化を夢みて、《スタディ》シリーズ(29-34)などで実験をくりかえしていた。フィッシンガーの抽象アニメ作品は、もちろんクラシック名曲と画の動きのシンクロ(同期性)のおもしろさが魅力のひとつにはちがいないが、それは単なるシンクロをこえて視覚と聴覚を合体させる「ヴィジュアル・ミュージック」(視覚化された音楽、目で見る音楽)とよぶべき試みであった。

 ユダヤ人であったオスカー・フィッシンガーは、ナチスの台頭と弾圧により36年アメリカへ亡命することを余儀なくされるが、それによって彼が住みついたアメリカ西海岸からは、ホイットニー兄弟、ハリー・スミス、ハイ・ハーシュ、ジョーダン・ベルソン、ラリー・キューバら、戦後アメリカ実験映画を代表する抽象アニメーション作家たちが数多く育つことになった(ディズニー・プロの《ファンタジア》[40年]ももとはといえばフィッシンガーのアイデアであったが、抽象イメージのみという案が却下され、彼は途中で手を引いてしまった)。

 フィッシンガーがその後一貫して追求し、西海岸に多くの後継者を生んだ「ヴィジュアル・ミュージック」の系譜や歴史的展望については、キース・グリフィス(ブラザーズ・クエイのアニメ作品のプロデューサーでもある)が監督したアート・ドキュメンタリー《アブストラクト・シネマ》(93年、VHSビデオ発売)がくわしく必見である。

抽象映像と時間

 抽象映像のもうひとつの重要な側面は、それが「非物語的」な映像であること、つまり直線的にストーリーが展開していく物語映画の時間構成とは本質的に異なる点である。ちょうど音楽には意味や物語がないのと似ている。音楽とおなじく(そして抽象絵画とはちがって)映画・ビデオ・CG等の抽象映像には「時間」が伴っている。

 劇映画の場合なら、時間にそって物語が展開し、前の出来事が原因となって後の出来事(結果)が起こるという関係(因果関係)によって意味が組み立てられている。こうした物語的構成とは異なる時間構成の形式として、抽象映像にみられる「音楽的」な構成がある(それ以外にも、よくみかける非物語的な構成としてカタログ的羅列がある)。

 抽象イメージが物語と離れて、変化する色や形を純粋な形式的原理で組み立てようとしたとき、リズム・反復・ハーモニー・対位法といった音楽の構成原理が、映像表現のなかに取り入れられていったのである。

 映像が音楽と結びつくもうひとつの動機として「聴覚体験の視覚化」という関心をあげることができるが、これについては近年のミュージックビデオにもっとも顕著な展開をみることができる。こうしてコンピューター・グラフィックスやビデオクリップにまで受けつがれた抽象映像の流れは、いまでは美術・映画・ビデオ・コンピューターなどヴィジュアルアートの諸ジャンルを横断して歴史的に見直すべき時期にあるといえる。