『背 吉増剛造×空間現代』七里圭 (2022) 

2022/8/30 映画美学校試写室にて

 

 ガラス。硬質で透明なもの。内と外を隔て遮断しながら、視覚的につなぎ内外を二重化し一体化するもの。このガラスという、物質にして透明な壁は、コロナ時代にあらゆる場に出現したアクリル板の原形、純粋形とも言えるかもしれない。

 この映画は、ガラスをめぐる禁欲的でコンセプチュアルな思索であり、またガラスへの抵抗でもある。「背」とは、みることのできない後ろ側であり「世界の後ろ側」という言葉も映画内で聞かれた。

 石巻のホテルの一室のガラス窓から映画は始まる。詩人・吉増剛造は「Reborn-Art Festival 2019」という総合芸術祭(2017年に東日本大震災の被災地で始まった)のためにその部屋に滞在し窓から見える金華山を見ながらあの津波に想いを馳せ(紙ではなく)ガラスに詩を書き(それはデッサンと呼んでもいい独特なものだった)、それを何度も消しては書いたという。

 この「風景の上に書かれた詩」はテンポラリーなプロジェクトだったようだが、フェスティバルとホテルはその作品を保存し常設展示しているという。

 

 本作のメインとなる京都のライブハウスでのパフォーマンス「背」は、この詩作をベースにした、オルタナティブバンド空間現代と吉増剛造のコラボレーション(その後、映像を含めた展示作品として展観)として同年11月に企画されたという。

 吉増剛造が自ら描いたガラスへのドローイングを一度クリーナーできれいに消した後、本番が始まり、目隠しした詩人は赤や緑のポスカの太い線をキキキキとガラスの上に引き、何かの形を描こうとする。そのドローイングがガラスの透明な境界面を際立たせたのち、さけぶようにときどき詩(おそらく金華山の詩)を読み始め、止める。ガラスを突き破るように何かでつついたりもする。それはパフォーマンスというよりアクションと呼ぶべきものだ。

 

 その間、カメラはずっとガラスの手前あるいは後ろで詩人を捉え続ける。固定されたカメラはじっと動かず、それがこの作品の禁欲的な空気や温度を作り出し、醸し出している。空間現代の3人が生み出す音楽もずっと画面の外から流れ続けている(本編には演奏する姿は映らない)。

 この不思議な空間と時間を体験しながら、ガラス、レンズ、部屋(イタリア語でカメラ)、声、光、音について我々は思索する。それは、映画という装置について考えることにも似ているかもしれない。一種のメタフィルム。

 

 何度か吉増剛造氏の朗読パフォーマンスを見たことがあるが(一度はギタリストが演奏し、マリリアさんが歌い、剛造氏が詩を読むものだった)、そのライブの体感そのものを映像に記録したり保存することはできない。映画になったパフォーマンスは、まったく別な、ある視点からある人が受け止め切り取ったものにほかならない。

 つまり『背』とは、七里圭が「ある視点」から切り取った一回的なライブ・パフォーマンスであり、またその在り様は七里圭映画にほかならないと思われたのだった。

 

©西嶋憲生

 

*『背』は2022年10月8日-28日、新宿K's cinemaでロードショー公開。

 

 

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